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多岐亡羊('93~'94)

② アジアの窓から

続・アジアの窓から

 「県議会アジア行政産業視察団」の一員として日本を出発したのは、衆議院総選挙と市議選のダブル選挙の疲れも抜けやらぬ1996年10月30日のことでした。インド、ネパール、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、ベトナム、タイ、香港(当時は英国領)の計8か国を回りました。『アジアの窓から』は、帰国後に東海愛知新聞紙上(1997年1月24日~3月6日、全26回)に発表したコラムです。


デンソー・インディア

 インド政府投資管理センター(Indian Investment Center、略称:IIC)のクマール所長は、インドにおける産業活動の将来性を熱っぽく語りかけて来た。
「現在インドは年3.5%のGNPの伸びですが、近い将来7%まで高まる見込みがあります。しかし、そのためには技術開発と資本が必要となります。我々は海外の優秀な企業にそれを望みます。今インドにはそれを受け入れる態勢と十分な能力を持った安い労働力があります。日本の企業にとっては絶好の進出の機会であると思います」
 と言って、次の三つの根拠を挙げた。
 まず、現在9億4千万の人口を擁し、年2%の増加率を有する巨大市場である点。2%とは毎年オーストラリアの人口が増える勘定である。ことに2億5千万から3億人と言われる中産階級の購買力は見逃せない。彼らは自動車やカメラなどの高級商品指向がある。しかし、インドでは良い品物がない。質の良い商品さえ揃えば必ず売れる市場だと言う。
 二つ目は、インドでは人口は多いが、それに見合った仕事がない点。そのため条件が良い職場ならば良質の労働力が日本の十分の一の人件費で集まるそうだ。
 三つ目は、今なら政府が海外資本の導入に積極的で、様々な優遇策がある点。
 中国に進出した日本企業の例に質問が及ぶとクマール所長は、
「インドは法治国家として法律が整備し、司法制度もしっかりしています。政府が交替したとして、中国のように契約を無視し勝手なことをすれば、十分裁判で争えます。それに、我が国は中国ではありません」
 と自信満々で答えた。私は不安であるが・・・。

 現在インドでは、日本のスズキ自動車が現地企業と提携して小型乗用車の生産販売で成功を収めている。現地で人気の800ccの乗用車が約70万円だそうだ。これを50万円までコストダウンできれば、今の倍以上売れるということである。しかし初日からの交通事情を考えると、他人事ながら別の心配に心が動く。急速な経済発展を願うのは第三世界のいずれの国にも共通した傾向であるが、一国の成り立ちというのは経済的要因だけ考えれば済むものではない。車が増えても走らせる道路は不十分、修理体制が整っていなければ車はただのゴミになる。私には社会の基本的インフラ整備の方が優先課題のように思えるのだが・・・
 そして、何よりもインドは日本から遠い。風俗、習慣も違い過ぎる。日本企業がインド進出をためらう理由は、どうもそちらの方にあるような気がする。
 そんなインドへ果敢に進出し頑張っている地元企業があった。「デンソー・インディア」がその会社である。私達はデリー郊外にあるデンソーにバスを走らせた。一時間ほどで白壁に囲まれた同社に到着。社長の今川勲氏は岡崎の竜美ヶ丘に自宅がある。
 デンソー・インディアは1984年にデンソーと住友商事、現地企業のマルチ、そして機関投資家を中心とする公募の資本により設立された。当初はなかなか経営が軌道に乗らず、赤字続きであったそうだ。93年に増資を行い、経営権を確保してから業績が上向きとなり、今日では約40億円の売り上げを計上している。ここに至るまでの経営陣の苦労は一通りでなく、ことに経営管理のルーズさを日本式にきちんとさせることが手始めであったそうだ。出勤時間も当初は各自まちまちで、始業時間の定刻8時半がいつも30分遅れる。多民族国家としてのインドの宿命か、集団としての自覚、規律に欠ける生活習慣がこの国での近代企業の発達を阻害しているようだ。
 現在、従業員は790名。そのうちデンソー本社からの出向が、今川社長を含めて10名いる。出向社員も現地では同一待遇で、部長クラスで約10万円、課長で5、6万円、工員は1万8千円の給与体系。もちろん本国の家族には別途に残留家族手当が支給されるそうである。単身赴任が多い点を尋ねると、
「食料事情、教育事情、住環境を考えると、とても家族は連れて来られない。食料は、肉も魚も野菜も定期的にタイのバンコクかシンガポールまで代表者が買い出しに行きます。また医療の問題が一番心配で、緊急時はバンコクまで特別便の飛行機を手配することになっています」
 と言われた。このときの今川社長の顔が「ほんとにタマランですよ」と言わんばかりの表情だったことをよく覚えている。
「何より辛いのは、そうした現地の苦労を、なかなか本社が理解してくれないことです」

 今一つ、この地につきものの「カースト制」の問題に話が及ぶと、同室のインド人ガイドの存在を気にしながら、慎重に言葉を選んだ。
「インドでは、職分によって実に細かくカーストが分かれている。違ったカースト同士は、お互いに近づこうとはしない。しかし、企業の生産性向上のためにはそうした習慣は邪魔です。社内では基本的に、みな平等です。食堂もみな一緒です」
 しかし、現実は高学歴者ほどカーストも高く、管理職は上級カーストの者で占められているそうである。

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インド雑感

 今回、私は、広大なインド大陸の中の北部のデリーとアグラを訪れただけで、この文章を書いている。東京と鎌倉を二泊三日で訪れ、国際交流センターと大仏を見て日本論を書こうとするくらいの暴挙と言える。同質性の高い日本ならまだしも、相手はインドである。
 日本の約九倍の国土を持つこの国は、二十五の州と七つの大統領直轄地からなる連邦国である。インドと言うと、仏教の故郷(ふるさと)として、あるいは東京裁判で日本を弁護してくれたパール判事の国として心情的近しさを感じる日本人もあると思う。ところがこの国は、そんな一面的イメージで割り切れるほど単純ではない。州の区割りごとに民族と言語が違うと言われるほどに多民族、多言語、さらにヒンズー教を中心にイスラム教、シーク教など対立関係にもある数多くの宗教がある。また、9億4千万の人口は、二千から三千の複雑な職業階級カーストに分かれている。カーストが違うと考え方や行動様式も違うと言われる。
 私のささやかなアメリカ時代の経験であるが、寮のルームメイトになったインド人が「同室の人間は兄弟だ」と言って、私の物を勝手に持ち出して使用することが度々あった。個人的な性格の問題かと考えていたが、後に他のインド人の知人に話したところ、
「そいつはカーストの低いインド人だ」
 と、言下に言い放った。人を出身で云々することは好きではないが、カーストごとに異なる思考形態、行動様式があるとするならば、それは「文化」と呼んでもおかしくないものである。
 この国の多様性が一目で分かるのが紙幣である。裏側に十六種類の文字で説明書きがある。これだけで驚いてはいられない。インドで使われている言語は、方言まで分類すると千六百種以上になるそうだ。インド人同士でも、英語でなくては話ができないほどだという。同質性の高い日本社会に育った私達にとって、インドのような国が一つの国家として存在し得ることを理解するのは困難と言える。かつて、明治の岡倉天心は「アジアは一つ」と言ったが、アジアどころか、インド一国でこの有様である。また先般、核実験の問題で国連がもめたが、インドは独力で核大国を目指している。
 この国のノーベル賞受賞者は日本より多い。ところが一般的には、五年制の義務教育すら励行されてはいない。文盲人口は今日も60%を超えるという。上下の格差の大きさがあらゆる面で我々の常識を超えている世界である。
 四千年の昔、インダス文明が栄え、モヘンジョダロでは今の日本の都市より機能的な排水設備さえあったという。文明というものはどこまでも伸び続けるものとは限らず、何かのきっかけで突如途絶えたり、後退する可能性のあるものである。インドの現状と我が国の将来が二重写しにならないことを祈るのみだ。

 写真を撮るためバスの助手席に座って気づいたことだが、この国には独特の臭いがある。人間と共生している動物達の糞の臭いである。町の至る所に見る牛や馬、豚、山羊、犬、猿、ラクダ、象、リス、それに様々な鳥。自然との共生を愛する人は、一度インドに来ると良い。この馨(かぐわ)しい(?)臭気の中で快適に暮らせるならば、本物の自然主義者と認めよう。
 大方のインド嫌いの第一の理由が、この臭いに代表される不衛生さである。第二は、町中の喧噪ではあるまいか。人間でいつもごった返しの町中は、当然喧しい。その上排ガス規制もない自動車が、三輪、馬車、人力車などと道を争いながら走っている。
 現地駐在員は必ず運転手付きの車をあてがわれるというが、自己防衛上の手段と言える。もし、牛をはね殺しでもしたら、即刑務所行き。刑期は人間の場合と同じ十五年から二十年だ。牛はヒンズー教の神様のお使いであり、神聖な存在として大切にされている。しかし、雄牛は使役用に使われるそうである。誰かが「俺達と同じだ」と言って、大笑いになった。夕陽の中、車道の真ん中をのんびり帰って行くのは雌牛と子牛である。
 我々旅行者が悩まされる今一つの問題は、夥(おびただ)しい乞食と浮浪者の群れ、そして物売りの攻勢である。毅然とした姿勢ではっきりと拒否の態度を打ち出せばよいが、少しでも甘い顔をすると乗せられてしまう。それでも小さな痩せこけた少女や赤ん坊を抱いた女の人の差し出す手を無視することは、なかなか難しい。
 いつも議場で意見を戦わせている諸先輩の意外なやさしさを何度も発見する旅でもあった。

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行き神様・クマリ

 かつてヒッピー達のメッカとなったのがネパールの首都カトマンズである。その中心の一角にダルバール・スクエアがある。ダルバールとは宮廷のこと。旧王宮前広場という意味である。ここでバスを降りた私達は、大勢の物売り達の攻勢を受けながらクマーリ寺院へと足を進めた。古ぼけた煉瓦と白い漆喰で塗り固めたような、古いアパートを思わせる建物がそれであった。
 通路を抜けて8メートル四方ほどの中庭に出た。見上げると、四面の上方に幾つもの窓がある。お布施を出すと「クマリ」という生き神様が顔を見せてくれるという。カメラでの撮影は厳禁だそうだ。写真の代わりにビデオを撮ろうとしたが、それも駄目と叱られてしまった。10分ほどして、ようやく左上の窓から少女が顔を出した。しばらくこちらを無表情で見下ろしていた。あどけない顔をしたこの少女が生き神様として祭られ、建物に閉じ込められて自由のない生活をしていることを不憫に思う。
 シャカ族の王子が出家して間もなく、シャカ国は外敵によって滅ぼされたと記憶していたが、シャカ族はその後も存続し今も二十数万人がネパールに暮らしているという。地元では「シャケ」とも「サキャ」とも呼ばれるシャカ族の中で、バジャリアナー仏教信者の親族の三、四歳の女の子の中からクマリは選ばれる。選出の方法は、候補者の女の子を一人ずつ王宮の中にある真っ暗な部屋に入れ、仏像や動物の彫像、オバケの絵のような宗教絵画を次々と見せる。ほとんどの幼女は怖がって泣き出すが、対象物を平気でじっと見つめているような子が必ず一人はいるそうだ。その子がクマリに指名され、生き神様として特別の教育を受けて育てられるという。
 クマリは聖なる椅子に座ると、まぶたが閉じなくなるそうである。そして数々の予知能力を示すという。毎年一回開かれるダサインというお祭りで、国王がクマリに会ってお告げを聞く。その時、王様に対し「チカ」というお米に赤い色をつけたものを差し出すのが習わしだそうである。もしクマリがチカを差し出さない時、それは国に何か良くないことが起きる兆しである。現に数年前、クマリが何もせずに涙を流した時、ネパールに政変が起きたそうである。
 国の将来を占う力を持つ彼女も出血をすると、それが生理や怪我、あるいは抜歯による時であってもクマリとしての神通力を失い、その座から降りなければならない。
 宗教儀式の折、クマリの額に第三の目が描かれる。手塚治虫の人気マンガ『三つ目がとおる』の主人公で超能力者の写楽保介(しゃらくほうすけ)は、きっとクマリからヒントを得たものと思われる。第三の目が超人間的力の象徴なのである。なお、クマリを選ぶのもシャカ族の僧侶で、バジャラ・アチャリャーと呼ばれる特別の修行をしている人達だそうだ。
 以上は、私が現地で何人もの話を総合してまとめたものである。

 インド到着以来、宗教と生活が表裏一体な人々を見続けて来たが、ネパールのクマリの存在は私にとって驚異であった。ビデオで撮ろうとした罰か、その後私のビデオカメラの録音機能が故障してしまった。これはただの偶然の出来事なのだろうか? どちらにしても、このカトマンズという町は、宗教の香りに満ち満ちている。
 クマーリ寺院の周りには猿神ハヌマン像のあるハヌマン・ドカ(王宮博物館)や、カスタマンダップと呼ばれる古い木造寺院が見られる。一つ一つの見学を終え、崇高な気分になりかけた私をいちいち現世に引き戻してくれるのが、「センエン(千円)」と言って、根気良く付きまとう物売りの子供達の声である。最後に、カトマンズの起源とされる伝説の地で、小高い丘の上にストゥーパ(仏塔)が建っているスワヤンブナートを訪れた。ここは猿が多いので「モンキー・テンプル」とも呼ばれ、かつては「ヒッピー・テンプル」とも呼ばれていたそうだ。現実には、物売りと物乞いが一番多く、猿よりも犬の方が目につくくらいだった。
 寺に登る前に川があり、橋が架かっていた。橋の中ほどで魚を焼くような匂いがしたので振り返って見ると、川辺の石台の上で何か燃やしている。ビデオのズームで拡大して眺めると、何と、燃えている炎の向こう側にニョッキリと人の足が見えた。そこは火葬場であった。

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シャカ族の末裔?

 旅に出ると思わぬ出会いがあるものだが、今回も実に不思議な人物と知り合いになった。同行のS議員がホテルのロビーで偶然知り合った人で、その名をヤギヤ・ラトナ・サキャという。名前の末尾に「サキャ」とつくのはシャカ族の証拠だそうである。
 彼の話によると、現在ネパール領のルンビニーでおシャカ様は生まれ、出家後、王国は外敵の侵入によって滅ぼされたが、シャカ族の人々はカトマンズ地方へ落ち延び、そこに住み着いたのだそうだ。今もネパールのカトマンズ近郊には彼と同じシャカ族の系譜に連なる人々が20万人以上住んでいるという。その多くは仏教関係の装飾品、仏具、仏像、金銀細工をつくる職業カーストに所属している。
 ヤギヤ氏も兄弟が製造した仏教装飾品や仏像、それに深山で修行中のお坊さんが描いたという細密画に近い曼陀羅を商いしている。現在もチベットの田舎の村々を歩くと、家々の奥に掘り出し物の仏具や仏像が転がっているそうだ。そこで、そうした物品を割安に買い上げ、汚れを落とし、磨いたり着色したりして、骨董品として転売する仕事もしているという。お客は日本人が多いそうだが、最近は台湾辺りの成金が金に糸目をつけずに買って行くそうだ。
 あまり日本語が堪能なので理由を聞くと、15歳から10年近く日本で暮らしていたという。大体、海外で日本人に親切ごかしに近づいて来る外人に碌な奴はいない。ことに「日本にいたことがある」などと言って来る者は要注意の部類である。

 商品を見せてもらうためにヤギヤ氏の自宅まで行くというS議員に、私も同行することになった。視察の仕事を終え、夕食後ロビーで待ち合わせとなる。私はその時、初めてヤギヤ氏と会った。浅黒い顔に広い額、精悍な顔つきである。早口でまくし立てる口調は何となく胡散臭い。タクシーに乗って郊外に向かう車の中で、どうにも不信感が募ってならない。彼の指示で進む車は、徐々に路地裏へ入り込んで行く。草原を抜け、未舗装の曲がりくねった細道を通る。どん詰まりの所で車を降り、さらに暗がりの道をしばらく歩く。どうも怪しい。
 左手にある二階建ての家が自宅だと言う。門柱の鉄扉の内側にバイクが二、三台、無造作に並べてある。いよいよ危ない気配がする。S議員にそれとなく注意を促し、ポケットの中の金属製のホテル・キーのホルダーを握りしめる。いざとなったら手近で武器となる物が必要である。玄関戸に手がかかる前に逃走予定経路の再確認をする。扉が閉まる時に鍵がかけられていないか見る。そんなに心配なら来なきゃ良かろうとも思うが、行きがかり上ということもある。新聞紙上の「現職県議・ネパールで失踪」の見出しが頭の中をちらつく。ほどなくヤギヤ氏のお姉さんの出迎えを受け、緊張が一挙に解けて行った。取り越し苦労とは、このことであった。その後に前述の話を聞くこととなったのである。

 彼は見かけによらず博識で、日本でネパール文化についての講演をした時の写真などを見せてくれた。おまけに、日本に帰ったらネパールのことを紹介してくれと、貴重な写真を二十枚ほど分けてくれた。その中の一枚に、実に見事な石彫りの仏像写真があった。石工業は日本、岡崎が本場であると思っていたが、こんなアジアの山奥に素晴らしい石工がいることを知り、驚かされた。石工師の名前はロクラージ・バジェラ・チャラ。ネパールでも有名な石職人の一人だそうである。日本にも指導に来たことがあるそうだ。仏像は、自ら三千メートル級の岩山から原石を運び出して来て彫刻したものだそうである。日本の石製品と違って、石の表面を金箔や各種彩色を使って仕上げて行くという。
 ヤギヤ邸でお茶を飲みながら、いろいろな仏教装飾品、仏像を見せてもらう。説明も一つ一つていねいに聞かせてもらう。
 疑っていたことを申し訳なく思うが、
「海外では、そのくらい警戒してちょうど良いのだ」
 と、もう一人の自分は言う。

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ミャンマーの光と影

 豊かな緑と英国植民地の名残のビクトリア風町並は私達の心を穏やかにし、今この国で起きている問題をしばし忘れさせてくれそうである。
 首都ヤンゴンの名は「戦いの終わり」を意味する。ミャンマー最後の王朝の初代王アラウンパヤーが1755年にヤンゴンと名づけ、イギリス統治時代から先頃まではラングーンと呼ばれていた。
 国民の大多数は敬虔な仏教徒で、市内には数多くの寺院がある。特に目を引くのは、高さ99.4メートルの黄金色の大仏舎利塔を持つシュエダゴン・パゴダである。一万枚近い金箔と5451個のダイヤモンド、1383個のルビーが散りばめられている。ここを訪れる者は誰でも素足にならなくてはならない。仏様の前では素足になることが体に染み込んでいるミャンマーの人が日本に来ると、鎌倉の大仏様の境内の入口から裸足になってしまい、ガイドが困ることがあるという話である。形骸化してしまった日本の仏教のあり様を見慣れている私達には、ミャンマーの人達の真剣さがとても新鮮なものに見えてならない。
 午後から訪れた投資委員会はインドと同様、外国企業の誘致促進の業務をおこなっている。表向きは軍政による人権抑圧に反対して経済制裁を科している欧米諸国であるが、各国の企業は相次いでミャンマーの投資委員会を訪れて、新しいビジネス・チャンスを伺っているのが実態のようである。日本は何事も露骨にやり過ぎるので叩かれやすいが、本質的に経済優先はどの国も同じである。ただ、やり方が巧妙であるかそうでないかの違いがあるだけである。ちょうど、かつての植民地支配の日欧の対比と同じように。
 どちらにしても、ミャンマーが現在の東南アジアに残された最も有望な投資先であり、労働市場としても経済市場としてもその価値を認められていることは確かである。
 ミャン事務局長の説明によると、新投資法によって外国の資本が自由にミャンマーで事業を開始できるようになったという。外国資本100%の企業進出を認めている国は近隣にないとのこと。しかも、最初の三年間は免税措置があり、早期に進出を決定した企業には、さらなる得点があるという。何から何まで良いことづくめで、
「こちらで見たままを日本の皆様にお伝え下さい」
 という言葉にさえ若干の疑問を抱きながら委員会を後にした。何と言っても、この国は軍政下にある。当然、表と裏の顔の差は他国より著しいはずである。

 実は、私達はあることを心配していた。初日から三日間の予定で私達の通訳兼世話係の一人であったオウマさんという女子学生がいた。日本語専攻の大学生で、日本語を習い始めて半年ほどということで、まだあまり上手ではなかった。しかし、買い物先などで献身的に動き回るので我が団員達の人気者であった。一緒に写真を撮ったり気楽にスーチー女史のことを尋ねたりしていたが、翌日から違う人に交替してしまい、その説明すらなかった。
 この国では、あらゆる情報を最寄りの人民警察、あるいは人民委員会に通報しなくてはならない「通報の義務」がある。ひょっとして外国人と親しくしている彼女の様子を誰かが通報して、当局からクレームがついたのではないかと心配するのである。杞憂であれば良いのだが、実態は分からない。
 今一つ分からないのが、麻薬組織と軍政権との関係である。中国との国境沿いのラオス、タイと隣接した丘陵地帯は、その地形から世界有数の麻薬生産地「黄金の三角地帯」(ゴールデン・トライアングル)と呼ばれている。辺境の地であるため昔から中央政府の力が及ばず、地域の少数民族の特別支配地となっていた。かつて中国共産党との戦いに敗れた国民党軍の残党が逃げ込み、資金づくりのために農民達にケシの栽培をさせたのが始まりともいう。その後、麻薬の製法は近隣に広まり、現在も幾つかのグループがゴールデン・トライアングルを牛耳っている。
 政府の軍門に下った麻薬王クンサーは、その一つのボスに過ぎない。裏街道に親玉の替わりは幾らでもいる。ひょっとすると、軍がそれらと特別の関係にあるかもしれないという情報もあるのだ。それならば、世界中に幾つもある軍政国家の中で、アメリカが特にミャンマーに厳しい対応をする理由が分かる。
 この地域内には、先祖から何百年にわたってケシの栽培で暮らしてきた部族もいるという。日本からも、お茶、蕎麦などへの転作指導員が派遣されているそうだが、長年の習慣と換金率が麻薬とは比較にならず、この三月の政府による公的猶予期間までの転作は難しいという。しかも、その政府が裏で麻薬組織とつるんでいるとすれば、何をか言わんやである。

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大東亜戦争に思う

 世の中には触れずに済む事柄と、嫌でも触れなくてはならない問題がある。日本人としてアジアに言及する時、避けては通れないのが戦争の問題である。
 今回私達の訪れて来たシンガポール、マレーシア、ミャンマーという国々は、かつて大東亜戦争と呼んだ戦いの初期、日本軍が破竹の進撃をして行った地域である。「マレーの虎」山下奉文大将や、マレー沖海戦における海軍航空隊の活躍、「加藤隼戦闘隊」の歌などは戦後生まれの私でもよく知っている。
 日本人が他のアジア人に対して優越意識を持つ心理的背景は、日露戦争の勝利以来、敗れこそすれ先の大戦まで欧米列強の白人国と唯一渡り合って来たアジアの国家であるという自負心と、戦後の荒廃から短期間で現在の経済大国を築き上げた自信によるものと思われる。
 しかし、歴史的認識には立場によって異なる見解があるもので、フランスの英雄ナポレオンや太閤秀吉とても、周辺諸国にとっては憎むべき侵略軍の親玉に過ぎない訳である。先の大戦においても、侵攻した日本側にどんな大義名分があったとしても、それを受けた側がどう感じたかによって、行為の意味はまったく違ったものとなる。
 当時は、「五族共和の大東亜共栄圏建設」「新秩序確立」「八紘一宇」など、表向きは植民地解放の聖戦を思わせる美辞麗句が並び、国民もそれを信じ込まされたようである。今、客観的に当時の事実を顧みれば、軍部及び国家の上層部が自国の勢力圏の拡大に主眼を置いていたことは明らかである。後進帝国主義国であった日本が、先進帝国主義国の包囲網による経済封鎖のため「開戦止むなきに至った」という論理は判るが、それは、あくまで帝国主義国同士の事情である。被支配国であったアジア諸国にとっては預かり知らぬ問題である。その点を日本人が理解しない限り、戦争認識の格差の問題は、どこまで行っても擦れ違いのままと思う。
 大金を投じて満州や朝鮮半島に港を造り、鉄道網を敷設し、教育制度を整備したのは他ならぬ日本だと言う人もいる。しかし、それは他人の家に勝手に上がり込んで、
「お前の家は汚いから、掃除をして壁を塗り替えてやった。感謝しろ」
 とでも言うのに等しい。また、一部の兵隊の蛮行とともに日本軍の評判を落とした原因に「物資の現地調達主義」がある。無理な物資徴用は現地の生活を圧迫し、餓死者が出た所もあるという。貨幣の代わりに「軍票」が使われたが、日本の敗戦とともに紙屑となった。
 日本にとってある意味不運だったのは、支配の実効期間が短期であった点である。台湾は五十年、朝鮮半島は三十五年と中途半端な期間である。歴史的仮説の一つであるが、満州族・清の中国における三百年、大英帝国のインドにおける二百年ほどの実効支配が続けば、被支配地域の同質化をさらに進めることもでき、歴史的反発も今ほど強くはならなかったかもしれない。
 アジアの国々の戦争認識は当時の各国の実情によって様々である。支配と抵抗の歴史から被害者意識の強い中国、朝鮮半島、フィリピンなどの国々がある一方で、ミャンマー、マレーシア、インドネシアのように「日本の進出が西欧のアジア支配に楔を打ち込み、民族自立と植民地解放運動を促進した」という認識を持つ国々もある。実際、戦後も現地に残って独立運動に協力した日本人がいた国では、独立の早期実現を感謝している人々がいるのも事実である。
 私達は物事を白か黒か、善か悪かの単純な分類で一面的な判断をしてしまいがちだが、先の大戦のように複雑な要因が絡み合って発生した物事は、その評価が多面的に分かれても致し方ないと考える。それを無理矢理一つの価値判断に押し込めようとするのは、どちらに傾いても極めて危険なことである。戦後五十年を経過した今、先の大戦について社会科学的見地に立ち、もっと冷静に分析評価できないものだろうか。我々以降の世代なら可能と思うのだが・・・。

 新年度の歴史の教科書に、従軍慰安婦問題や日本の戦争責任についての記述が盛り込まれるとのことだが、子供達に教える段階でそうした問題には今も様々な見解があることを先生方から伝えてほしいと思う。そして、子供達自身に考えさせる機会を与えてほしい。どんな事柄にも光と影の部分が存在する。その両方を見て自分で考え、意見を述べる。異なった考え方にも耳を傾けられる柔軟性も必要であろう。そうした新世代を育てることが、過ちを繰り返さないために一番必要なことと思う。
 ミャンマーからタイへ向かう機上、かつてこの大空に装備の劣る一式戦「隼戦闘機」に乗り、銃弾とともに飛翔した青春があったことを思い出していた。

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タイの王室

 この国を語る上で欠くことのできないのが、王室の存在である。同様に皇室を持つ日本ではあるが、王室に対する国民の思い入れの深さが違うのである。日本の天皇は戦後「人間宣言」をして象徴の立場に収まってしまったが、タイの王室は、戦前・戦中の日本の天皇家の立場に近いと言える。しかも、日本の皇室よりも積極的に国政のあり方へ関わっている。念のため言っておくが、これはどちらが良いかということではなく、違いの説明である。
 国民の80%を占めるタイ族は一世紀の頃、中国の南部からこの地へ移動して来たという。その後、十三世紀半ば、クメール帝国を打ち破ってスコータイ王朝が樹立され、現在のタイの原型ができたのである。以来、アユタヤ朝、トンブリー朝を経て、1782年から現在のチャックリー王朝となっている。
 1932年の立憲革命によって立憲君主国となったが、軍部は8回もクーデターを企て、その度に武断派と文治派の政権交代があった。1992年の民主化運動の折、軍部とデモ隊の衝突により多数の犠牲者が出たことから、現プミポン国王がテレビに出て両者の和解の労を取ったのは有名な話である。
 現在は民政移管が行われているものの、国王はただの飾り物ではなく、王室の援助によって農業や灌漑などの国土開発を行うロイヤル・プロジェクト事業を積極的に推進している。ことにタイ北部はミャンマー同様、麻薬生産の「黄金の三角地帯」の一角を占めており、同国の一大懸案事項であった。そこで、この地域の農家に対しケシ栽培を止めさせ、コーヒーや隠元豆などに転作するロイヤル・プロジェクトが進行中であるという。
 歴史上の人物は、たった一つの出来事で英雄になったり悪人になったりすることが少なくない。ところがこのプミポン国王は、タイの現代史の幾つもの節目に政治の表に現れては常に的確な決断を下し、国家的危機を乗り切っている。八回の軍事クーデターの企ての中で、王室がそのまま健在であった国など、世界でも希な存在である。これは、単に王室の権威の高さの問題ではなく、現国王の個人的資質によるところが大きいようだ。若い頃スイスに留学した彼は、近代国家のあり方を十分理解する進歩派であり、作曲までする音楽家でもある。普通、こうした階級に属する人々は、自分達だけの閉鎖的なグループを形成し、一般大衆とはかけ離れた生活を好む傾向がある。
 現国王は、国内の東西南北四カ所にある離宮を拠点として、毎年それぞれに地域巡幸を繰り返している。
 タイ王室の存在は憲法上「国家と一体・不可分」と位置づけられている。加えて、現国王の類い希なる英明さ、清廉な私生活、寛容な人柄、国家そのものへの滅私の姿勢によって、広く国民の畏敬、崇拝の対象になっているとのことである。
 その不世出の賢王プミポン殿下も今年69歳である。何代も続いて英明なる国王が出ることは、人類史上にもあまり例がない。問題はポスト・プミポン国王である。

 タイには「不敬罪」が存在する。不用意に王室を誹謗中傷する言動に対し重罪が科せられる。そのため公の場でこの問題を質問しても、本当の話はなかなか聞くことはできない。そこで、氏名を明かさない約束で教えてもらったのが、下記の内容である。
 プミポン国王には、シリキット王妃との間に一男三女がある。長女はアメリカ人と結婚してしまい、王位継承権がない。現在、後継者と目されているのは長男のワチラロンコン皇太子と次女のシリントン王女である。普通、長男がそこそこの出来なら次女の出番はないはずと思う。ところが、皇太子の評判はタイ国内ではかばかしくない。元女優の第二夫人があり、宮廷内で暴力事件を起こしたりと、素行上の問題もあるようだ。一般的なタイの男とすれば大した問題ではないのかもしれないが、現プミポン国王が完璧な国王像を体現しているだけに辛いところがある。
 そこで、日本の浩宮様のお妃候補に名前が挙がったこともある、才色兼備で国民的人気の高い次女のシリントン王女にも王位継承者の資格を認めることになった。
 こういうケースで最も心配されるのは、徳川将軍家のお世継ぎ問題と同様なお家騒動の発生である。タイの国王は、「国一番の金持ちが最高のブレーンを持っている」と言われるように、元首相、軍首脳、学者などで構成される賢人会的なアドバイザーがいる。重大な決断については、そうした人々の意見も反映されているという。しかし問題は、現国王亡き後にそれが機能を発揮するかということである。後継国王に不満を持つ勢力が、軍と結んでクーデターを起こす可能性も否定できないという。成り行き次第によっては、それがタイ王国の将来を決めかねない。

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アウンサンスーチー再考

 日本とは、アユタヤ時代の山田長政の活躍をはじめ御朱印船による貿易などによって古くから交流のあるタイである。現在マレーシアと並んで、東南アジア諸国の中で最も多くの日本企業が進出しているのもタイである。
 私達はタイ経済界の第一線で活躍中の進出企業の幹部との懇親会に招かれた。そこで、中日新聞の吉田記者からミャンマーについて興味深い情報を得ることになる。ミャンマーについては前にもいろいろ書いたが、どうも釈然としない思いがしていただけに、ありがたかった。
 吉田記者の話によると、
「みなさんの見てみえた首都ヤンゴンは、軍政権のショーウィンドーです。あれをミャンマーの本当の姿と思わないで下さい。もし私の言うことをお疑いでしたら、ぜひ郊外まで足を運んでみて下さい。まったく違ったミャンマーが見られるでしょう」
 ということであった。
 ミャンマーという国は、もともと豊かな国土と十二分の降雨量、勤勉な国民性によって第二次世界大戦までは世界有数の米の輸出国であった。それが、その後の国内の混乱と、1962年以来26年間続いた一国社会主義体制のもと安く抑えられた米価に農民はやる気をなくし、農地は荒廃し、国は疲弊して行った。
 現在の軍政権により市場経済へ移行し、ようやく農業生産も回復して来ている。とりわけ外国資本による灌漑施設の建設などにより、タイのように三毛作が可能になったという。ところが吉田記者の話では、
「それは一部地域の話ですし、恩恵を受けているのも現政権の人脈に近い筋の農家だけです」
 とのことである。さらに、ミャンマーの安定について尋ねると、
「米が安く、野菜はタダに近く、餓えがないから暴動が起きないだけのことです」
 と言う。
 そう言えば、タイの物価指数は日本の五分の一くらいで、農村部では十分の一。ミャンマーは二十五分の一ほどというから、贅沢をしない限り食うには困らない。何せ一日2、3円で食えるという所である。平均家族が十数人で、そのうち一人が外資系の会社に就職できれば、全員の食い扶持はOKとか。ただ公務員の給与は低く、三十代の教員が月1000円から1500円だという。そこで、多くの教師はアルバイトで英語を教えたり塾を開いたりして月4~5000円稼いでいるそうだ。
 問題は、そうした特殊な能力のない人達である。ミャンマーの農村部からも多くの娘達がタイに出稼ぎに行っているという。
「外国の投資が促進されれば職場が増えて、人々の暮らしが豊かになるのに、なぜスーチー女史は外国の投資に対して否定的であるのか?」
 と問うと、
「外国資本により現政権が安定してしまい、真の民主化が遅れてしまうからだ」
 との答えであった

 私は民主主義というものを軽んずる気はないが、専制的支配体制の長い歴史を持つアジアの人々に、果たして西欧文明の所産とも言える民主主義が生活の向上以上に価値があるものかどうか疑問に思った。命よりも理念、思想を大切にする人達は民主化の実現第一で進めば良いと思う。しかし、一般の人々の生活向上を犠牲にしてもその考え方を優先させる・・・というのはいただけない。それでは民主主義というものが政治の概念ではなく、思想か宗教になってしまう。日本のように豊かになり、社会の安定と生活の向上が達成された国で民主主義の理念を追い求めるのは結構だろう。しかし、ミャンマーのように内外の政情が不安定であったところに民主化を持ち込んでも、却って混乱を増幅するだけではないだろうか。
 かつて途上国で軍政の代わりに登場して来たのは共産党政権か宗教政党のケースが多い。しかし、それなら看板が違うだけで、中身は大差ない。国家にも発展段階における課題というものがあろう。私はこの国に今必要なのは社会の安定と生活の向上であり、国が豊かになって初めて民主主義は根づくものと思う。
 結論として、現政権がいつ、どんな形で民政移管を行うのか見守りたい。軍政権だから治安が良いのは当然だが、今のミャンマーの警察国家的あり方は行き過ぎである。戦時中の日本の隣組的相互監視制度、憲兵隊の行ったような拷問による取り調べが今後もまかり通るとすれば、軍政権の存在理由の正当性は薄くなる。
「法律による統治ではなく、軍政権の考え方によって法律の方が変えられてしまう。今は国全体が刑務所と行ってもおかしくない」
 とスーチー女史は語る。確か、日本大使館での説明では、スーチー女史の夫(英国の学者)から入国のビザ申請がなく、夫婦仲が悪くなっているとの話であったが、吉田記者の話では、家族の入国を政府が許可しないとのことである。
 いずれにしても、「スーチー女史が美人でなかったら、世界のマスコミはこれほど注目しなかったろう」というコメントには笑わされた。まるで、クレオパトラだ。
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宗教を考える

 今回の旅の間中、私達が実感していたのはアジア社会における宗教の存在の重さということである。
 現在の日本社会における既成宗教はかつての輝きを失い、冠婚葬祭のセレモニー演出家となった観がある。宗教本来の持つ道の追求、心の救済といった役割は薄らいでしまったかに見受けられる。そのため、真理や心の救いを求める人々が、私のような門外漢が考えても不可思議な教義を持つオウム真理教の如き異形の宗教にさえ魅せられることになる。宗教や神仏、天地創造の不思議といったようなことをあまり考えようとせずに育った免疫の乏しい人達ほど、変な宗教の影響を受けやすいような気がする。変な宗教というのは、宗教本来の活動よりも政治や経済活動に熱心であることも含まれる。
 そういう側面を多く見せつけられると、心ある人々は宗教的な物事すべてに嫌悪感を抱くようになるだろう。ちょうど今、政治が国民から信を失いかけているように・・・しかし、特定宗教を信じるか信じないかはともかく、私達を生み出した人知を超えた宇宙的力に対し、常に畏敬の念を持ち続けることは肝要と考える。そうした心が、あらゆる欲望において暴走やすい人間の歯止めになると思われるからである。
 先の大戦における敗戦の後遺症として日本の伝統的精神文化の良い面まで崩壊してしまい、続くアメリカ型物質文化の流入と経済第一主義の世相の中で公徳心や信仰心も薄らいでしまったと言われる。そうした時の推移と軌を一にするように、以前の我が国の常識では考えられなかった出来事や社会的混乱が続発している。もちろん「だから教育勅語を復活させよう」などと時代錯誤を主張する気はない。ただ、日本の精神文化の崩壊を食い止めるために何かが必要ではないかと思う。

 今回、アジアの旅の道程で、私達は実に様々な宗教の存在を垣間見て来た。インドの社会秩序の規範であるヒンズーの教義から派生したカーストの身分・階級制により、今も多くの人々が規制と差別に苦悩する有り様。ネパールは仏教発生の地ではあるが、国民の九割はインドと同じヒンズー教徒であり、同質の問題を持つ。マレーシアとインドネシアはイスラム教国であるが、中東諸国ほど厳格に教義で縛られていない。
 ミャンマーとタイは仏教国であるが、大衆救済を目指す大乗仏教ではなく、個人の悟りと出家主義を根本とする小乗仏教である。戒律は厳格で、男子は一生のうち一度は出家修業をしなくてはならない。僧は個人財産を持たず、妻帯せず、禁欲・菜食主義で托鉢による生活を守る。現実に目の当たりにする修行僧の質素で敬虔な姿は、私には大きな感銘があった。もちろん、僧の生活のすべてを見た訳ではないので断定はできない。
 そう言えば数年前、タイで当代一の人気と尊敬を集めていた四十代の高僧に、内縁の妻と子どもがいることが発覚し、破戒僧として追放された話を何かで読んだ記憶がある。
 同じ仏教国でありながら国によって随分と違いがあるようだ。大乗仏教でも、中国や韓国の僧は妻帯せず、世俗とは距離を保っている。ベトナムも同様である。日本の仏教は、親鸞以来肉食妻帯を許すものが出現し、かなり変容して来た。宗教も各国の文化的影響を受けるのだろうか。
 どちらにしても、求道者のイメージを表に出した新宗教の戦略は心の空白を埋めようとする人々のニーズに合って、我が国では成功している。
 ブッダ、お釈迦様はヒンズー教の神様の一人に数えられるという説がある。ともに古代インドのバラモン教の影響下に発生して来た仏教とヒンズー教である。何らかの関わりがあっても、おかしくはないであろう。
 ユダヤ教とキリスト教とイスラム教も、呼び名こそ違え、唯一絶対の神を敬う共通性があり、預言者の教えを守る「啓典の宗教」として、兄弟宗教の関係にあると言われる。では、そうした類似性のある宗教でありながら、なぜ宗教同士が相争い、流血の歴史を続けているのか? 人類の救済や隣人愛、神への献身を誓う人々が、なぜに神の名のもとに自派の勢力拡大のための暴力を正当化して来たのか。また、宗教の教義そのものが差別を助長しているように見受けられるものもある。
 こうして考えると、果たして特定の宗教に所属、帰依するのが良いのか、日本的な便宜的お付き合いをした方が無難なのか、分からなくなって来る。
 宗教は、人類史において確かに重要な役割を果たして来た。しかし、今後も人類とともに存続して行くのか、それとも科学の発達とともに忘れ去られて行くものなのか。私には宗教というものが、また分からなくなって来た。

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伸び行くベトナム

 11月10日、視察行も12日目となる。タイを後にした私達は、機内食を摂る間に、ほどなくメコン川のデルタ地帯の上空に達する。蛇行して流れる川の様子は昔、本で見た写真の通りだ。
 今から二十数年前、この流域の上下流、至る所で激しい戦闘が行われたのである。ちょうどこの辺りは、アメリカ軍の戦闘用ヘリコプターが乱舞していたことだろう。
 空港到着早々、社会主義国的弊害(?)に直面することとなる。入国カウンターには十数人の役人がいたが、業務を行っているのは半分、残りはタバコを喫ったり、のんびりお喋りをしたりしている。形はどうあれ、能率的に業務をこなしてくれさえすれば良いのだが、彼らの対応はデタラメである。パスポートを持ってAカウンターに並んでいると、Cカウンターへ行けと言う。Cに並んでいるとBに行かされ、しばらくして、またCへ行けと言う。身一つだけの移動ならともかく、大きなトランクを持っている。四回目の移動を指示された時は、さすがに頭に来て文句を言ってしまった。しかし相手はまったく動ぜず、素知らぬ顔である。添乗員の岡氏の話では、
「ベトナム入国の際は、いつもこんなものです」
 とのことだった。昨今、急増中の日本企業のベトナム進出の理由は、安い労働力とともにベトナム人の几帳面さと勤勉な仕事振りにあると聞いていたが、どうやらお役人は別らしい。その代わり空港での不機嫌を持ったまま出口に向かった我々を、現地ガイドのロァンさんという女性は爽やかな笑顔で迎えてくれた。

 かつて、この半島一帯を引っくるめて「インド・シナ」と呼んでいた。
 マレーシア以来、各地でインド文化と中国文化の入り混じったような風俗、習慣を見て来ただけに、誰が名づけたのか知らないがピッタリの名称だと思う。もちろん各国独自の文化を持っている訳だが、それぞれに多大な影響を与えて来たのがインドと中国であることは誰の目にも分かる。
 空港からホテルに向かうバスの窓から、思ったより整然としたホーチミン市の町並が見える。そう言えばここは、仏領インドシナであった。瀟洒な白い建物はフランス植民地時代のものであろうか。かつてサイゴンと呼ばれていた頃「プチ・パリ」(小さなパリ)の愛称があったという。1975年4月、北ベトナム共産党軍の最後の大攻勢によりサイゴンは陥落。後に、今は亡き偉大な指導者にちなんでホーチミン市と改名された。当時学生だった私にとって、ホー・チ・ミンは懐かしい名である。

 翌朝、私達は、経済開放政策に移行したベトナムの窓口である「国家投資委員会」と、外資系企業の進出先の一つ、タントアン輸出加工区を訪れた。
 白塗りのすっきりした投資委員会の建物で私達の応対をしたのはナギャン・バン・ナム専門官であった。小柄だが、がっちりとした体つきの専門官は、かつて高射砲部隊に所属していた対米戦の戦士である。49歳ということは、私の兄貴分ぐらいの年齢だ。ソ連と同じく社会主義経済に失敗したベトナムは、86年の共産党大会で経済の「刷新」を意味する「ドイモイ政策」を決定した。具体的には、
「得意分野である消費財を中心とした軽工業部門を重視し、輸出を奨励する。外国企業への門戸を開き、市場経済システムを導入する」
 とのことである。
 ドイモイ政策は、新市場を捜す外国企業と利害が一致し、一応の成果を見ている。96年の共産党大会では、2020年までに工業国として自立し、GDPを8倍にする目標が掲げられた。本年からの第6次5カ年計画では、2000年までのGDP成長率を平均10%としている。果たして社会主義の土台の上につくった市場経済が今後規模を拡大して行く中、十分コントロールされて発展できるものなのか興味がある。ひょっとすると、仲の悪い中国がお手本かもしれない。
 一通りの質疑の後、私はこんな質問をした。
「ベトナムの歴史は外国からの侵略の歴史です。古くは中国の各王朝、蒙古と、そして植民地支配を行った仏、日との抗戦を経て、インドシナ戦争、ベトナム戦争、カンボジアとの紛争、中越戦争と争いの止むことはありませんでした。世界史の中には一回の侵略で滅びてしまい、そのまま歴史の舞台から姿を消してしまった国家や民族は幾つもあります。なぜベトナムはこれだけの危難を乗り越えて、国家として、民族として生き残ることができたと思いますか?」
 私はイスラエルにおけるユダヤ教のように、何か民族に共通な団結を促す伝統的精神の有無を知りたかったのだ。
 ナギャン氏はニヤッと笑って、こう答えた。
「それは、唯一つ、愛国心です。外から侵略されればされるほど、国と民族への愛情は高まって行くものです」
 実に簡単で明瞭な答えであった。私は答えを聞きながら、体験者の言葉には実に説得力があることを改めて噛み締めていた。

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ベトナム戦争の世代

 ホーチミン市の町中で一番目につき、気をつけなければならないのがバイクである。交通事故もそうだが、バイクによる「ひったくり」に要注意とのことだった。ほんの一昔前では、バスと自転車しかなかったそうだが、今はバイク、とにかくバイクの洪水である。
 地元の人の話では、
「バイクなら、自分の行きたい所にいつでも自由に行けるから」
 という当たり前の理由が返って来た。この当たり前の自由が当たり前でない時が長かっただけに、今、町中をバイクに乗った自由が氾濫している。
 かつて「自由主義を守ろう」というスローガンのもとに、五万八千人のアメリカの若者がベトナムで倒れている。あれから22年経ち、今ではベトナム戦争も様々な本や映画によって冷静に検証されるようになった。オリバー・ストーンの『プラトーン』やスタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』を観た時、戦争体験のない私ですら、殺し屋の養成のための訓練に国境はないことを知り、自分が銃火に曝されているような思いでスクリーンを見つめていた。しかし、所詮それは疑似体験に過ぎない。
 アメリカ留学中に何人もベトナムの体験者と知り合ったが、みな一様に余程親しくならないと戦争の話はしてくれなかった。食堂で会う度に私のことを子供扱いしていたブルースという学生は航空母艦の乗員だった。ある時なぜか、ファントム戦闘機で出撃したまま未帰還となった友人の話をし始めたことがあった。
「そいつを甲板上で待っていた時ほど、時間を長く感じたことはない」
 と、ふと漏らした横顔は今も忘れられない。
 ジム・スミスという黒人の大学院生は志願兵として二年間ベトナムへ行った特典で、学費免除の特待生であった。後にハーバード大学で政治学博士となった優秀な男で、私と仲の良い友人であったが、ベトナム体験のことは、翌週私が帰国するというその時まで一言も語らなかった。
 パーティーで知り合った私の父の世代のアメリカ人から「太平洋戦争は正義の戦いであった」とか「俺は戦後、横須賀でもてた」といった他愛もない話を幾度も聞かされたが、ベトナムの話はほとんど聞いた覚えがない。当時はまだ記憶が生々し過ぎて、思い出したくなかったのだろうと思う。

 昨年、そのベトナムを思い出させる重要な本が出版された。著者はロバート・マクナマラ。かつてケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務め、ベトナム戦争の重要な執行者の一人であった人物である。その人間が回顧録として『ベトナムの悲劇と教訓』を出版したため、先頃アメリカで一騒ぎとなった。彼は本の中で、両政権ともベトナムの現状を正しく理解していなかったことを認めている。共産主義によるアジアのドミノ倒し的共産化を恐れるあまり、ホー・チ・ミンの運動が民族主義に基づくものであることを十分に認識していなかったことを告白している。
 キューバのピッグス湾事件(1961年)でアメリカの参戦を決定したのは確かにケネディであった。しかし彼が暗殺されなければもっと早くベトナムから米軍が撤退したであろうとマクナマラは言う。ジョンソン政権において全面戦争でもなく、兵を引くでもない中途半端な限定戦争を展開したためにベトナム戦争を泥沼化させ、引くに引けない状況となった事実も述べている。
 私は在米中、「我々は一体何のために戦ったのだろうか?」という標語と、何百という白い墓標を背景にしたポスターをよく目にした。まるで、あれと同じ印象を受ける。
 「ケネディ政権・最優秀の頭脳」と呼ばれたマクナマラ氏も齢八十近くになり、気弱くなったのだろうか? 果たしてワシントンのアーリントンに眠る英霊達はどう受け止めたであろう。太平洋戦争後アジアで起きた朝鮮戦争とベトナム戦争は、日本の経済の復興と発展においては天佑であったが、その実体はよく知られなかった。所詮「対岸の火事」であったのだろう。しかしながら、間違いなく我々の世代のアメリカ人やベトナム人にとってこの戦争は、戦場体験の有無にかかわらず、彼らの青春時代に大きな陰を落としている。
 その頃の我々は、グループ・サウンズとフォークソングのブームの中で「昭和元禄」を謳歌していた。機動隊相手の学生運動も本質的に命の危険はなく、「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)に代表されるベトナム反戦運動も日本政府に当てこすりをする程度の国内運動の位置を出るものではなかった。
 あれから二十年余り、私が小学四年生から大学三年生まで続いたベトナム戦争は、私にはテレビや映画の映像と記憶と本で読んだ知識としての痕跡しか残さなかった。
 太平洋戦争の実体験者である我々の父親世代が、そろそろ歴史の中に消え去ろうとしている今、戦争の語り部を持たなくなる日本民族に対し、私は一抹の危惧の念を持つ。日本の軍事路線化を心配される方もみえると思うが、私は逆に、こちらが手を出さない限り喧嘩は起こらないと考える人が増える方により心配を覚える。
 「治にあって、乱を忘れず」である。ページのTOPに戻る


香港へ

 「ホンコン」に来たのはこれで三回目になる。初めて訪れた時、思い描いていた中国的イメージとは随分違う近代都市の景観に面食らったものだった。
 香港と言えば「ショッピング」であるが、私はブランド商品にはほとんど関心がなく「機能が同じなら安い方が良い」という方なので、かの有名なペニンシュラ・ホテルのブランド品アーケード街に足を向けたのは今回が初めてであった。
 一日4、50円で家族が暮らせる国で、100円単位の値段の攻防戦をやって来た我々に、ここの商品の値札は別世界のものに見える。数字のゼロの数に目が眩み、早々に撤退した。ホテルのロビーで人待ちの間、数ある香港のホテルの中でも別格にランクされるペニンシュラ(意味は半島)の内部を観察していた。大理石のフロアからビクトリア様式の太い柱の列が高い天井に向かって伸びている。今まで大英帝国の権威の一端を担って来たこのホテルも、7月1日以降は歴史的遺物の一つになるのだろうか。

300  九十九年振りに中国領に復帰する香港が歴史の表舞台に登場して来たのは、18世紀後半にイギリスがこの地へ進出してからのことである。それまでは製塩と天然真珠の採取を行う小さな漁村に過ぎなかったという。この地の温暖な気候を利用して香木の栽培を行うようになり、やがて香木を出荷する港の名が「香港」となったという。
 馬鹿らしい話で恐縮だが、かつてニューヨークに留学していた頃、中国人の女の子を相手に、
「なぜKING KONGはキング・コングで、HONG KONGはホング・コングではないのだ?」
 と、バカボンのパパのような質問をして笑われたことがあるが、本来の発音は「ヒョンゴン」であったという。英語読みのHONG KONGが定着したのは、イギリスの植民地となってからである。
 今は紳士面をしているイギリスも、かつてはずいぶん阿漕(あこぎ)なことをして来た。18世紀、中国のお茶や陶器、絹を必要とした大英帝国は、その支払いのために生じた莫大な貿易赤字の解消のため、アヘンの密貿易を始めた。植民地インドで栽培したケシからアヘンをつくり、香港から中国大陸へ密輸したのである。
 当然、清国政府から度重なる抗議があるが相手にしない。業を煮やした清朝の役人・林則除(りんそくじょ)がアヘン商人達から大量のアヘンを没収し、海へ投棄してしまった。アメリカでは茶税を巡って起きた同様の事件「ボストン茶会事件」(1773年)から対英独立戦争が始まっている。中国で、報復としてイギリスが起こしたのが「阿片戦争」(1840年~42年)であった。この戦いによる勝利により香港島を手に入れたイギリスは続く南京条約で九龍地区を得、1898年の北京条約では占領地の99年間の租借権を獲得している。自国の政治家ウィリアム・グラッドストーンからも「我が国史上、かつてない不名誉な戦争」と言われたのが、この一連のアヘンを巡る戦いである。その99年目の期日が1997年6月30日なのである。

 香港は世界一ホテル宿泊料の高い所であるが、97年7月1日の歴史的一瞬を見ようとする人々のため、その頃の香港の全ホテルは予約で一杯だという。おまけにホテル代は通常の四、五倍に跳ね上がり、四泊以上の契約でないと受け付けてもらえないそうだ。
 ついでに、イギリスのアジア進出がいかに悪質な手口によるものであったか見てみよう。
 まず進出(侵略)しようと思った土地に貿易商館を建てる申し入れを行う。平和的な貿易の申請なので、各国とも許可する。そこには悪名高き「東インド会社」の系列の商館が建つ。随時建て増しされ、ある区画を占有したところで、居留民保護の名目で本国から軍隊が派遣され、いつの間にかそこは砦に囲まれた要塞になっている。そして、何かイチャモンをつける切っかけを見つけては武力占拠、領地拡大を繰り返すのである。さらに国内に部族間対立があればそれを煽動し、植民地支配に利用して来た。
 アジアで悪事を働いたのは日本人だけのようなことが言われやすいが、歴史を少しでも振り返ってみれば正体は分かるのである。イギリスのやり方が巧妙・悪質とすれば、日本のやり方は単純・粗暴であったと言える。欧米の日本批判の裏には「日本のために植民地経営が台無しにされた」という心理があることも見落としてはならないと思う。「だから日本は悪くない」と言うのではない。しかも、日本が侵攻して行った時の香港は、かつての田舎漁村ではなく、イギリス統治が百年近く行われた文明圏であっただけに、印象はさらに悪いものとなった。
 先ほどのキング・コングの話の中国人同級生の父親は、日本の香港占領によって大量の商品を没収され、一族の中から死傷者も出している。
「私の父親は日本人が大嫌いです。もし私に日本人の友達がいると知ったら、すぐ帰国しろと言うかもしれない」
 と聞かされたことがある。
 クリスマス・カードによると彼女はその後カナダ系中国人と結婚し、今はトロントにいるらしい。
 GOOD LUCK.
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香港返還

 あと半年足らずで、香港は正式に中国領となる。
 この97年「香港返還」に向けて、香港在住の中国人達は様々な試みを行って来た。現在、香港からアメリカに移住するためには一人当たり約4500万円の保証金(預金証明)が必要という。要するに、社会保障の経費で財政難に陥っている先進諸国としては、これ以上のお荷物は要らない、自活できる能力のある人間にしか移民を認めない、ということであろう。
 ガイドの話では、香港における三、四十代の男性の平均年収は300万円ぐらいだという。平均的な人々が移住に必要なお金を貯めることは事実上不可能である。従って欧米に移住できる中国人は、金持ちか国際結婚した人達だそうだ。
 香港には競馬場が二箇所ある。昨年の馬券売上総額は1兆2千億円もあり、住民一人当たり約15万円という勘定になる。賭博の売上としてこの数字は群を抜いて世界一である。大穴の出やすい香港の競馬事情に加え、一攫千金で海外移住の夢を果たしたいという香港人の心の現れと言えるであろう。
 香港の中国人と話してみると、いかに本国政府を信用していないかがよく分かる。中華人民共和国は共産革命を目指す社会主義国である。しかし「人治主義」という言葉があるように、国家が法と制度によって運営されると言うより、指導的地位に就く人々の意志によって政策が大きく左右に揺れる傾向がある。この国で一つの政策が5年以上何の変更もなしに継続したことは希だという。
 現在、中国はイギリスとの間で、1997年7月1日の返還後も50年間は香港の自由貿易港としての地位を守る約束をしている。しかし、これもまた、いつ政府の方針が変わるか判ったものではない。現に、外国企業との契約で始まった経済特別区における外資優遇措置さえ縮小される心配が出ている。北京の官僚は、さらに特区における増税のほか、特区そのものの廃止まで検討中であるという。こうした本国政府の体質を熟知している香港人達は、いざという時に海外に移住するための様々な準備をしている。
 香港在住のエリート達はほとんど米国などと二重国籍を有している。また金持ち達は複数の国々の不動産を買ったり、外国の銀行に貯蓄したりするなどリスクを分散させている。

 余談になるが、私は学生時代から中国史が好きで、ふつうの中国人と話をしていても王朝名や人物名など私の方が正確に記憶していることが多い。受験勉強も捨てたものではない。
 前述の中国人女性に向かって、中国における社会主義の必然性と現実主義者としての周恩来の姿勢を評価したところ、大変な剣幕で抗議されたことがあった。
「あなたは中国の現実を何も分かっていない。本で得た知識だけで中国共産党を理解している。本当に周恩来や毛沢東の政策が正しいのなから、どうしてあんなに多くの人々が命がけで逃げてくるの?」
 どうも我々日本人は、先の大戦の中国戦略の事実に負い目があるせいか、中国に対してはソ連に比べて点数が甘くなる傾向がある。私は一言も返答できなかった。
 中国人は現実的な人々である。厳しい歴史の洗礼を受けたせいか、実体のないイデオロギーなど本心から信じてはいないようだ。
 私の顔は中国人によくある顔だそうで、留学中、中国人の友人も多くできた。私の経験と観察によれば、同じ留学生でも日本人より中国人の方が真剣さが勝っていたようだ。中国人、とりわけ香港から来ていた学生は一族の期待を一身に担っているケースが多く見られた。それは当然、まさかの時の移民のためである。その多くは専門職に就くべく、医学部や工学部などで勉強していた。社会で高収入が予想される職種である。中には、一族で学費を出し合って最優秀者を留学させているケースもあった。彼らに失敗は許されない。医者や技術者としてアメリカで成功し、市民権を得なくてはならない。そうして万が一、中共が香港で強権を発動するような時には、この人物を頼って一族の者が政治亡命をするのである。こうした使命を帯びた中国人留学生の勉強に対する真剣さは、帰る国のある我々とは一味違ったものであった。

 中国の共産党政権のことを考える時、「歴代王朝の一つとして捉えた方が本質を見誤らない」と言われることがある。私も同感である。社会主義の看板を掲げてはいるが、実利主義的な中国の伝統的体質は変わっていない。中国の社会主義体制は、イデオロギーよりも儒教的な大家族主義に根ざしたものであると考えた方が理解しやすいであろう。
 中国政府の、時として傲慢とも思える強硬な外交政策も、自らを世界の「中華」と認識する中国の伝統的思考の現れとも考えられる。そのせいか、中国人は日本人よりも民族の血族としてのあり方を大切にしている。
 かつて、特別な素振りも見せていない私に対し、
「日本人とは結婚できない」
 と何度も言った彼女の顔が苦々しく思い出される。
「自惚れるのも大概にしろ!」
 と言ってやりたかったが、当時、英語の決まり文句を知らない私であった。

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