岡崎市長 内田康宏のホームページ

① 多岐亡羊('93~'94)

アジアの窓から

 1993年1月、私は、アメリカ政府の公式招待による〝大統領就任式にともなう国際交流プロジェクト〟に日本からただ一人参加する幸運に恵まれました。アメリカ大陸を横断しながらの、世界24ヶ国から集う有能な仲間たちとの交流は、国際社会における人間関係のあり方を改めて考えさせてくれたものです。また、かつて私が留学した時とは異なるアメリカ合衆国の一面を学ぶことができました。
 そして翌年の4月には愛知県議会の中南米行政産業視察団の一員として、ブラジル、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコの5ヶ国を公式訪問する機会を得ました。
 帰国後、東海愛知新聞紙上(1993年4月4日~4月18日、1994年6月15日~7月13日)に発表した文章をもとに、『多岐亡羊 '93~'94 南北アメリカ・レポート』(1994年10月刊行)という本を著しました。その本から12編を選んでここにご紹介します。なお「多岐亡羊(たきぼうよう)」とは古い中国の言葉で、道が幾つにも分かれていて、逃げた羊を見失う意から「学問の道が多方面に分かれ、真理を得がたいこと。転じて思案に迷うこと」を指します。


大統領就任式

 1993年1月20日、いよいよ本日、クリントン新大統領の就任式である。なんといっても、我々はまずこれに参加するために多忙な中、アメリカまで来ているのである。当然、期待感は大きい。
 昨晩、二万人収容のキャピトル・センターで観た〝アメリカン・ゴール〟。マイケル・ジャクソン、バーバラ・ストライザンド、その他大勢の大スターによる大統領就任を祝う華麗なパフォーマンスの興奮がまだ脳裏にしっかり残っている。アメリカ人は、式典をショーとして盛り上げることが実にうまいと思う。
 一昨日、クリントン、ゴアの新・正副コンビは、隣のヴァージニア州にある第三代大統領トーマス・ジェファーソンの家からバスで出発。途中の町々で、演説しながらワシントンまでやって来た。かつての古き良きアメリカの時代の幌馬車によるバンド・ワゴンのセレモニーの再現である。
 このように、あの手この手と国中のムードを盛り上げてゆき、最後に就任式で打ち上げ、新政権への国民の親近感を高めようとしている。こうした式典・セレモニーのために、今回2,800万ドル(33億6千万円)の予算が使われることに対し、批判の声があるのも事実だ。

 午前の講義を終え、会場の国会西広場にでかけた。驚いたことに、開会1時間前であるのに、もうすでに一面、人また人の有り様である。ちょうど、岡崎市の人口(32万)が一カ所に集まったようなものである。我々は政府の公式招待であるから当然、前の方に席が用意されていると思っていたが、そうではなかった。
 就任式は、国会議事堂の西側のテラスで行われるのだが、そこは政府高官及び国賓の席である。テラス下の最前部には、各国のジャーナリストが陣取り、仮設のTVタワーまである。その後方にイス席がある。このあたりが、俗に〝アンバサダー・シート〟(大使席)と呼ばれる所である。この一角に、各国大使級の来賓と共に席をもらえるのは、新・大統領の政党に年間5万~10万ドル(600万~1200万円)以上の寄付をした法人・個人である。さらに、その周囲を大きくフェンスで囲まれたエリアがある。この内側に入れるのも同様な寄付者か、選挙に対して功労のあったアメリカ国民に限られている。入場に際し、飛行機搭乗と同様の身体検査と招待状の提示が求められる。結果的にこうした人々が大統領を守る人垣となっているのである。
 我々が位置していたのは、そのフェンスの外側であった。昨日までの厚遇との落差に少々ガッカリしたが、これが伝統なのだそうである。
 「これが公式招待者に対する扱いなのか?」と文句を言ったところ、「お前さんよりエライ人も立っているんだから、ガマンしてくれ」と言われてしまった。ともかく、会場内では上手に位置を確保して背伸びをしないと、人の頭しか見えないことになる。さらに、定刻近くになると、朝の通勤電車のような混み方となる。それでもなんとか、式典のテラスが望める位置に陣取り、ビデオカメラを構える。私はその形のまま1時間、身動きができなかった。
 アメリカの第二の国家と言われる「ビューティフル・アメリカ」の合唱が場内を包む頃、ムードは最高潮、人々の目はテラスに集中。次々に登壇し、紹介される政府高官に対する反応も、いかにもアメリカらしく、はっきりしている。

 民主党政権の祝典のためか、共和党のブッシュ、クエール、正副大統領への反応は実に冷ややかなものである。逆に、勝利者であるクリントン、ゴア新・正副大統領への歓声と怒号は、まさに地鳴りを思わせる迫力があった。群衆の動きに体が揺られ、歓声の他は何も聞こえない。
 この数日来の、きらびやかな式典・セレモニーのあり様を振り返ってみると、民主主義国の大統領就任式と言うより、新国王の誕生を祝うかのようである。
 私と同行の、韓国・釜山日報のナン記者は、「これは、単にアメリカ中産富裕階級のムダ使いのお祭りで、今は華やかだが、終われば何も残らない」と厳しい見方をしていた。
 しかし何よりも、一つの理想を掲げ、それを推進しようとする若く新しき政権を、とにもかくにも国民全体で盛り上げていこうとするムードがあることに対し、一人の政治家として率直にうらやましさを覚えた。

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飛行機に見る国民性

 ワシントンでの最終日、なんとか博物館を訪れる時間をつくりだした。
 豊かになった最近の日本で、欧米をうらやましく思うことはほとんど無くなってきた。しかし、これだけはまだ当分かなわないと思うのは〝文化的社会資本の蓄積〟、すなわち博物館や美術館のレベルである。とりわけアメリカ東部の博物館や美術館の充実ぶりは、二十世紀初頭のアメリカが登り坂の時代に成金の大富豪達が金に糸目をつけずに世界中からかき集めたコレクションであるだけにスゴイ。パリのルーブル、ロンドンの大英博物館のような帝国主義の時代に植民地からカッパラッてきた品物による〝盗賊の館〟とはまた違った趣がある。
 つい先日、大統領就任式の舞台として喧噪の最中にあったワシントン、ザ・モール公園。アメリカの都市公園の中で、最も大きいものの一つであるという。その外周を囲うように数多くの美術館、博物館がある。先程アメリカの成金の道楽のような言い方をしてしまったが、これからの博物館は、実は英国人ジェームズ・スミソンの寄付した基金により1852年に始まったものである。現在はその周囲に新しく建てられた十あまりの建物を加え、スミソニアン博物館グループと総称され、ワシントンにおける一大文化センターとなっている。

 とりわけ我々の〝少年心〟をときめかせてくれる一番手は4100万ドルの大金を投じて1952年に完成した「国立航空宇宙博物館」である。入館して真っ先に目に入ってくるのが、1986年に世界一周無給油無着陸飛行を行ったボイジャー号の白く細長い機体である。これは平成元年の名古屋デザイン博に同規格のイミテーションが展示されていた。さらに、世界初の飛行機・ライト兄弟のキティー・ホーク号、大西洋横断を行ったリンドバーグのスピリット・オブ・セントルイス号、続いてドイツのV・Ⅱ型ロケット、アポロ宇宙船のカプセルまで並んでいる。一つ一つじっくり見ていては、とても一日では終わらない。

 建物の西棟の奥に、第二次大戦の代表的戦闘機が展示されているコーナーがあった。もちろん、我が国の誇る零式艦上戦闘機、いわゆる「ゼロ戦」も入口の上に天井からつるされていた。身近な手の届く位置にあるこの飛行機を眺めていると様々なことが想起される。まず、機体のきゃしゃな様子に驚かされる。こんなに薄いジュラルミン張りの飛行機が時速540kmの速度で飛翔し、同じ会場に展示されているアメリカのP-51・ムスタングやイギリスのスピット・ファイアー等の名機と互角以上の空中戦を演じたわけである。かつてパイロット志望であった私は、この部屋の中にいるだけで身体中が震えるような興奮にとらわれていた。
 太平洋戦争の初期において世界一の性能を誇ったゼロ戦も、連合国の本格的な反攻の始まりによって、優秀な熟練パイロットの多くを失い、さらに敵の新型機登場と物量作戦の前に、カミカゼ攻撃用の特別機となっていったのである。日本人の多くが未だにこの飛行機に限りない愛着を感じるのは、そうした栄光と悲劇に彩られた運命に一種の日本的ノスタルジーを感じるからではないだろうか。
 このコーナーの中には、〝世界の撃墜王〟という展示があった。そこには、大戦中の世界各国のエース達の顔写真と戦いの記録が並列表示されていた。まるで野球選手のホームランの数や勝ち星の比較のような展示の仕方を批判される方がみえるかもしれないが、このあたりがアメリカ人のドライな感性である。また、日本やドイツなど、かつての敵国のエース達の記録まで正確に展示しようとするアメリカの博物館の公平なあり方はそれなりに好感が持てるものだと思う。

 飛行機の造り方、運用の方法を比べてみると、各国の国民性を知ることができるようで興味深い。ゼロ戦の機体の美しいフォルムは徹底した軽量化と航空力学の追究から生み出されたものだ。しかし、その結果、パイロットの安全性・防御面は二次的なものになってくる。
 反対に、グラマンのズングリ・ムックリした機体は、アメリカのあふれる富、世界一の工業力の象徴である。大きな人間の乗る大きな機体は大型エンジンで引っ張りさえすればよく、資源小国・日本のように燃費の心配をする必要もない。人権意識の強いこの国では、座席の防弾鋼板や燃料タンクの防御に見られるようにパイロットの安全性を考えることに重点が置かれていた。
 当時の日本の置かれていた情況を振り返ってみると、次のようなことが分かってくる。資源小国・日本が欧米の世界戦略に対抗するためには、まず南方の資源を押さえる必要があった。南方の資源を本国に安定供給するためには、強大なアメリカと正面から対決しなければならなくなる。そこでアメリカと互角に戦うためには、緒戦においてアメリカの正面兵力であるハワイの太平洋艦隊を叩くべきという考え方が生まれた。
 遠くハワイまで多数の飛行機を空母に搭載して運ぶためには、小型機でなくてはならない。資源の乏しい日本は、燃費がよく航続距離の長い小型で高性能のエンジンを開発する必要があった。小型機で武器を多く積めないという弱点を補うため、攻撃力の高い二十ミリ機関銃を持ち、空戦性能も一級の戦闘機が要求された。以上の要求のもとに三菱の堀越二郎技師の手により新型甲種艦戦のゼロ戦(レイ戦)が生み出されることになる。ここに「ゼロ戦なくして、太平洋戦争もなかった」と言われる所以がある。真珠湾攻撃と相前後して行われたフィリピン攻撃において、ゼロ戦は台湾から片道800kmを飛んでいる。その事実を、当時の在フィリピン司令官であったマッカーサー元帥は戦後も長い間信じようとしなかった。当時の飛行機の常識では考えられない性能であったからだ。
 日本のトップ・パイロット達の戦績をみると、撃墜数百機以上の者が何人かいる。中堅どころでは、戦死された方も含めて、撃墜50~60機という人も少なくなかったという。ところがアメリカ及び連合国側の撃墜王は、せいぜい30~40機のスコアである。十分な訓練と高性能の飛行機、優秀な戦略・戦術の上で戦っていたはずなのになぜかと不思議に思うが、理由は簡単であった。日本やドイツは負け戦であったため、一度戦場に送り込まれたパイロットは、よほど運が良くない限り、毎日過酷な情況で戦いを続行しなくてはならなかったからである。アメリカなど連合国のパイロットは、一定期間、前線で戦うと交代して休暇が与えられ、新型機の飛行訓練を受けたりして戦線復帰していたため、一人あたりの実質の従軍期間が短かったのである。反対に戦う機会の多い日本やドイツのパイロットは、優秀な者はそれだけ撃墜数が増えていく。そして過酷な戦闘条件の中で消えていった者も多かったという。古来「英雄の出る戦は、負け戦」と言われるが、先の大戦も同様らしい。
 ルフトバッフェ・ドイツ空軍のエース・パイロットであったエーリッヒ・ハルトマン大尉は、第二次大戦中なんと352機の撃墜世界記録を持つという。
 こうして改めて戦時中の両国の武器の選び方、人間観、用兵方法を比べてみると、何やら戦後の日本の労働条件、社会構造のあり方と同一傾向のものが垣間見えてくるような気がする。日本人の基本的な体質、考え方は、戦後民主主義の中でもあまり変わっていなかったようだ。もっとも、その滅私奉公的な体質の結果、今日の我が国の繁栄の基礎が築かれたのである。
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デンバーに見るアメリカ型民主主義

 リトル・ロック市における数日間は、それまでのあわただしさに比べ、穏やかな日々であった。
 ケーブル・TVの放送局を訪ねた我々は、思わぬことに飛び入りでTV出演によるインタヴューを受けることになってしまった。はずみとは実に恐ろしいものである。
 市長より名誉市民の賞を受けた我々は、この町を発つ日の朝、同市の生んだ今一人の偉大な人物ダグラス・マッカーサー将軍の幼少期の家を訪ねた。南北戦争以来、親子三代にわたって職業軍人の家系にある、この米国陸軍の英雄の実家は現在、博物館と公園になっていた。アーカンソーの最終日、我々は再び六つの小グループに編成され、西部の各都市を訪問することになる。

 コロラド州デンバーに向かった我々の飛行機は、吹雪のため三十分間も、空港上空で待つこととなった。降りしきる雪の中で、一面銀世界のデンバーの街並みは詩的風情をたたえていた。標高1600メートルの高所にあるこの都市は、マイル・シティ(1マイルは1600メートル)の名がある。ロッキー山脈の東にあり、ロッキーの女王とも呼ばれている。
 今から十六年前、大学の夏休みを利用して私は一人でグレイハウンドのバスに乗ってこの地に来たことがあった。当時は、本当に田舎の町という印象であったが、今日の高層ビルの林立する様は、隔世の感がある。私たちはここでパトリシア・スローダー下院議員の事務所を訪ねた。女史はワシントンにいるため、文書担当の秘書が代わって応対してくれた。
 アメリカ人の国会議員秘書は、日本と比べて政策秘書としての性格が強いようだ。下院議員一人あたり、年間50万ドル(約6000万円)の手当が国から支給される。それによって、事務所経費、秘書の給与などが賄われるのだ。事務所は、下院議員の場合、ワシントンと地元の二カ所を持つ場合が多い。国会事務所の場合、日本の議員会館の三倍ほどの面積があった。地元の事務所は一戸建てであり、各秘書が担当ごとに個室を持ち、OA機器を使っていかにも機能的に運営されていることがうかがえる。秘書の人数は、国会・地元それぞれ八人ほどで、常任秘書は各三人ずつ、あとは学生のボランティアである。学生といっても、大学院生で学位を持っている人達が多いそうだ。当然、個々の議員により以上の内訳は異なる。
 事務長の部屋にベビーベッドが置いてあったので訳を聞くと、奥さんがパートで働き出したために、午前中は御主人が赤ん坊の面倒を見るという。いかにも女性の権利拡張運動をしている議員の事務所らしい話である。しかし、後でこの話を他のアメリカ人にしたところ、大半が驚いていた。いくらアメリカでもこれは行きすぎなのだろうか。また、コロラド州には大きな空軍基地があるせいか、女性ながらパトリシア女史は民主党の軍事問題の専門家の一人である。室内を見回すと、軍事関係資料が多く目についた。
 今回各訪問地で、州議会、市議会の開会中を視察することができ幸運であった。コロラド州議会を訪れた時、傍聴席に入る際に何のチェックもなかった。写真を撮っても、ビデオを回しても何の注意もない。休憩時間には、議場の中まで入れてくれたのには驚いた。各議員は、議場の個々の机の上に資料を一杯持ち込んでいる。
 さらに、議事進行のシステムが違うことに気づかされる。我々愛知県議会の場合、議会質問は事前通告が必要で、再質問も一回しかできない。ところが、目の前で行われているのは、そうした一方通行のお話ではなく、まさしく議論である。しかも、発言者の内容に異論がある場合、第三者の議員に発言が認められている。議長は、そのための調整役として、実に活発に動いている。何か別の世界のできごとを見ているような錯覚にとらわれてしまう。
 我が国の民主主義のあり方は、考え方の違う者が話し合って合意点を見つけようとするものではなく、いかに異なった考えの者の発言の機会を封じるかに力点が置かれているように見うけられる。そのために、「根回し」がある。言わば、根回しによって議論を封じた〝和の政治〟である。そのせいか、逆に異端者の言動は往々にして先鋭化する傾向があるようだ。

 我々自民党県議団も、自由な議論で話をすすめる会合をすることがある。しかしおおむねそれは非公開の内輪の話し合いである。
 アメリカの議会運営のように、公開討論の形で議論を進めていく議会の在り方は、一つの理想の形ではある。しかし、一般のアメリカ人の話を聞くと「単にくだらんことを長々と討論しているだけだ」という評価もあることを申し添えておきたい。議会の形式、民主主義の在り方というものが一様でなく、各国の文化、伝統、国民性というものの中から形成されているのであるから、一概に何が正しいとは言えないだろう。
 しかしながら、今日の動脈硬化をおこして、儀式化してしまった日本の議会の形式主義に思いをはせる時、党議決定に縛られずに、議員個人の責任と意志で投票のできるアメリカ型民主主義に学ぶ点はあると思う。
 湾岸戦争の折、当時民主党上院議員であった現・ゴア副大統領は、民主党の出兵反対党決議に異を唱え、出兵賛成の票を時の共和党ブッシュ政権に投じている。「党規違反で処分」などとアホなことは誰も言わない。現に彼は今、民主党の副大統領である。これがアメリカ型民主主義の一例である。
 村落の寄り合いの延長のような議会運営からは、何も活力ある提言は生まれないだろう。そこでは単に、御都合主義と長老支配が延々と続くのみである。ちょうど今、我々の社会が直面しているように。
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ロッキーのシティー・マネージャー

 デンバーの中心地にある、州議会議事堂のドーム状の屋根は金箔が張ってある。かつて、この地方が金の発見によって発展したことを記念しているのだ。我々はワゴン車に乗り、デンバーから北へ二時間近くのエステスパーク市へ向かった。アメリカの国立公園の多くは西部に集中している。これは、この国が東から西へ発展してきたことと関連があるのかもしれない。巨大なロッキー山脈が、文明の破壊から自然を守っているように思えたが、眼前に広がる大自然の前には、逆に人間の無力を感じる。
 これほど広大な国土と豊かな自然に恵まれたアメリカではあるが、その自然保護に対する熱意は我々の比ではない。全米36の国立公園にはそれぞれきちんとした管理機構が確立し、自然の動植物保護活動を行っている。ここロッキー山脈国立公園もその一つである。1060平方キロメートルの圏内には、83の山々が数えられ、そこには700種を超す植物と300種もの鳥類・動物が生息しているという。
 エステスパーク市は、そんなロッキー山脈の一角に位置している。町のシンボルはビッグホーンと呼ばれる大角ヒツジである。運の良いことに、我々は公園内をドライブ中に数多くのそうした動物達に遭遇することができた。この時期にはまれなことだという。
 翌日、我々は市役所を訪れ、助役と市の執政官(シティー・マネージャー)と会見した。今回の訪米の中で、私はシティー・マネージャー・システムを学んでくることを課題の一つにしていたため、渡りに船である。私と同年輩の若い執政官ゲーリー・クロパーク氏は、この地ではアドミニストレイターと呼ばれていた。同市は選挙によって公選される市長と六人の市議によって運営されている。議会は円形テーブルで行われ、一般公開である。しかし、実際の行政実務に関しては、先程のゲーリー氏が執り仕切っている。
 彼は、市長と議会の協議の上で任命されている。身分は一般の役人とは異なり、ちょうどプロ野球選手のような年限付き契約制である。日本の役人のように、部内で昇格するのではなく、他都市の役人として優秀な業績をおさめた人物や、企業経営に秀でた人材をスカウトして雇うのである。成績優秀なれば、ボーナスが出て契約延長。または上級の都市から再スカウトのチャンスも出て来る。もちろん、その逆もある。どちらにせよ、このシステムによって行政の専門家でない人が市長になっても行政は円滑に行われる。さらに、能力ある役人が組織の中で飼い殺しにならずにチャンスをつかむこともできる。少なくとも組織活性化には役立つだろう。アメリカでは、このシステムを採用している都市がけっこう多い。サンフランシスコのように大きな都市でも採用しているという。
 助役のヒックス氏の話では、「彼は優秀な人物だから、上からスカウトされるだろう」ということである。我々が訪問中、ゲーリー氏は実に精力的に行政のシステムから、政策一般にわたって説明してくれた。とりわけ観光地としてのエステスパークの景観美化のための政策に、心を砕いている点が印象的であった。市内見学の折には自分が先頭に立ち、河川美化の工夫やら、道路の緑地帯のデザインの意味等を説明して回ってくれた。私はその時、腕時計を見て、その日が日曜日であることに気がついた。やはりアメリカでも、曜日に関わりなく職務に忠実な人はいるのであった。

 帰途、ブラックホークという、コロラド州でギャンブルの認められている三つの町の一つへ立ち寄った。遊びのためではない。
 現在、コロラド州では、観光地におけるギャンブルをもっと広範囲に認めて新たな州財源とするか、新税を導入するかでモメている。私選挙以外の賭けごとは一切やらない人間であるが、これは我々に与えられた課題であるので、実地調査に出掛けるにした。
 町の風景は、車と電柱を除けばまるで西部劇の舞台のような雰囲気である。ドアを開けて店内に入ると、各種スロットルマシーンが揃っている。建築物の外観と、中の不釣り合いが面白い。浜幸さんで有名なバカラやポーカーもできるらしい。しかし、ここでは一回の賭け金は5ドルに制限されている。
 何も賭けずにカウンターに座っていた私は、よせばいいのに、バーテンから「これを飲んだらお前の友達の分もタダにしてやる」と言われて、妙な小ドリンクを飲んでしまった。なんと、バーボンとテキーラとウォッカのカクテルであった。その夜、私はホテルの便器に顔を向けていた。

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訪米研修を終えて

 訪米研修出発前のTVインタヴューに答えて、「アメリカの二大政党制によるスムーズな政権交代に学びたい」旨の発言をした記憶があるので、その点に触れてみたい。

 古来〝あらゆる権力は腐敗する〟というのが、政治学的認識の第一歩である。とりわけ、政権交代のない権力は道端の溜まり水と同じく、すぐに濁り、虫がわき、腐臭を放つようになる。
 サッチャー元英国首相は、日本の戦後における驚異的経済発展の要因の一つとして、〝安定した保守党(自民党)政権による強力なるリーダーシップの存在〟を指摘されていた。確かに、政治と経済の効率第一主義の二人三脚により我が国が発展してきたのは事実である。しかし、そのために我々が失ってきたものが少なからずあることも認めなくてはならない。
 今回の訪米中、私は自己紹介の弁の中で「愛知県は、日本のGNPの13%を生産する産業中枢圏であり、それは世界GNPの1%にあたる」という言葉を繰り返してきた。その通り、間違いはない。しかし、いつしか私の心の中に大きな疑念が浮かび、自問するようになっていた。
 言うまでもなく「GNPが人間の幸せの指標になるだろうか?」という疑問である。外国から帰ってくると〝外国カブレ〟と揶揄されたくない心理もあって、決まり文句のように「やっぱり、日本が一番良い」を連発する我々日本人である。
 確かに、経済第一主義のシステムを守って来たおかげで、今日の繁栄がある。では、豊かさとは何か? 経済的成功、快適な環境、安定した人間関係、健康、心の充実、個人の自由等。現在の不況風で、一番目の経済的成功さえ心もとなくなってきている。
 今はともかくとして、以前、経済的問題以外に他に幸福の要素がどれだけ満たされていたか疑問である。
 もっとも、そんな生意気なことを言う余裕が出てきたのも、戦後日本経済の成功のおかげではあるが。
 そうした歴史的意義を評価するとしても、今後は新しいシステムを取り入れていかないことには、この国が立ち行かないことを皆が気がつき始めているはずだ。では、どうすれば良いか?
 現在の中央政界の混乱振りを見るまでもなく、最も重要なことは我々政治家の心構え、個々の政治姿勢にあることは言うまでもない。
 次に浮かんでくるのは、政治浄化のために、具体的にどんな方法がとれるかということだ。いくら良い方法でも、実現の可能性のないプランでは机上の空論である。私はまず、選挙制度の公平、公正を実現すべきだと思う。すべては、それからの話である。我が国において、各選挙の度に一票の価値の格差の問題が問われているが、一向に根本的改善のなされる兆しがない。あたり前である。日本では、各議会が自分達で自分達の定数を決定している訳だから、理想通りゆかないのである。
 私は、この点については、ぜひアメリカ式システムを取り入れるべきだと考えている。アメリカでは、十年ごとの国政調査の結果を基に、各州の選挙区定数調整をおこなっている。そのため、1910年以来、下院議員の定数435は不動である。日本の国会にように、御都合主義で増加させていない。国勢調査の結果、連邦裁判所の管理の基に、自動的に調整されてゆくのである。もっともアメリカでも、州議会のレベルでは、日本と同じく議会が調整権を握っている所が多いのであるが。日本の場合、政治家だけが上手に、自分達に都合の良いことをしているというイメージを払拭させる意味でも、このようなシステムをまず国会において採用してほしいものである。
 これならば、やる気さえあれば、大きな障害もなく、今すぐにでも採用可能であると思う。その上での選挙制度の改革ならば、多くの国民の理解も得られることであろう。現在、我々地方議会の段階では、国の法律改正なしにこうした改革はできない。

 私は、以上の経緯を踏まえた上で一つの試案として将来小選挙区制へ移行し、政権交代可能な二大政党制の実現をはかるべきであると思う。そしていずれは、衆議院の六十歳定年制、参議院は定年なしの代わりに少数精鋭化。大臣は総理の指名者を、議会の承認を得て、今以上に広く財界、官界、学会から最適任者を登用できることとし、議会は政府監視機能に専心するようにする。これで、議員の大臣病はなくすことができるだろう。最終的には、総理大臣も公選制の方向へもってゆく。要するに、金とポストで養った派閥の親分達の談合で総理大臣が決まるようなシステムは、段階的に変更してゆくべきと考えている。なぜならば、これら一連のものこそが、日本の古い政治文化の象徴だからである。
 これまでのように単なる小手先の改革では、日本の政治のあり方が変わることはないだろう。いずれにせよ、それを選択するのは、有権者自身である。

(注・この記事の発表後ほどなくして自民党が分裂し、離党した議員によって新党さきがけ、新生党が結成された。1993年8月9日に細川内閣が成立するも、それから一年も満たない間に総理大臣は二度も交代した。)

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新天地に生きる人々

「せっかくですから、チョット郊外の日本人移民の足跡と日本企業の様子を見てみませんか」
 という有馬庄英氏の言葉を受け、私一人だけ氏の車でサンパウロの南75キロにあるサントスまで出かけて行った。一色町出身の有馬氏は昭和30年代に早稲田大学で学ばれた後、25歳の時に奥さんと二人でブラジルに移住された方である。
 山際の道路を走り、トンネルを抜けると、突然視界が開けてきた。海に向かって緑の山野が下りのスロープとなっている。あの海沿いの町が移民の玄関口サントスなのだ。1908年6月18日朝、日本からのブラジル移民船第1号笠戸丸は、このサントス港第十四埠頭に着き、そこから日本移民の歴史が始まったのである。
 私達はサントスの入口で迂回して、トヨタ自動車の組立工場の見学に向かった。トヨタはこの十年間にここでランドクルーザーを5万台生産している。腰にピストルを持った守衛さんに挨拶をして、工場内に入る。場内は撮影禁止である。トヨタの工場としては旧式な小規模の工場であった。敷地内に並べてある完成車も、形式は少し古いようだ。私が思うに、トヨタのように、トヨタ方式で物事をキチキチと詰めてゆく企業体質の会社(一般に日本企業はそうだが)は、大ざっぱな南米気質の土地柄にはあまり合わない気がする。三月頃の新聞紙上で、トヨタがアルゼンチンに製造販売拠点を新設する計画を発表していたが、やはり南米の中でも自社の方針が通用しやすい所を選んだなという気がしたものだ。
 サンパウロへの帰路、日本移民がたどった汽車の線路沿いに走った。今は車で楽なものだが、かつては、板ごしらえのイス席に座り、旧式の汽車にゆられながらこの山道を奥地に向かったという。本国を離れ、船で一ヶ月半、太平洋を越えて来た人々が、どんな思い出この沿道の風景を見つめていたのだろうか。
 市内に戻って、有馬氏の尊敬するYKKブラジル本社の鈴木勇社長に面会することをすすめられ、ずうずうしくも本社へ乗り込んだ私であった。旅の楽しさの一つは、見知らぬ土地での意外な出会いにあるものだが、まさに鈴木社長はそのことを実感させて下さった。

 YKK・吉田工業がここブラジルで展開している事業計画は、まさに二十一世紀を展望した雄大なものであった。サンパウロの西方約150キロにあるソロカバという土地に、200万平方メートルの用地を確保し、そこにファスナーからアルミサッシ、住宅関連産業を育成する計画をとうとうと語られるのであった。私は朝食をとるだけのつもりであったので、ラフなジャンパー姿であった。そんな若造の県会議員一人に対して実にていねいに自社の事業計画とブラジル経済、社会の実情と展望を説明して下さるのであった。
「どうです、一つ現地を見て行きませんか?」
 私は社長の熱意に押されて、拒否する言葉を無くしていた。山中団長に調査目的を電話で告げ、単独行動の了解を得た。車に同乗してから気がついたのだが、こちらでは往復400キロぐらいの距離を「チョット」と表現するらしい。時速120キロですっ飛ばしているのだが、なかなか目的地に着かない。我々は、南米と言うと未開の国を連想しがちであるが、大都市近郊の高速交通網は思ったより進んでいる。
 途中の道程は、かつて日系移民が汽車を降りてから馬車や徒歩で進んだ道だという。初期の移民生活は、予想をはるかに超えたつらいものであったらしい。当初、コーヒー農園で二~三年働いて、金を貯め、故郷に錦を飾ることを夢見ていた移民達は、到着早々、現実の厳しさに直面することになる。日本人には、馬小屋のように見える粗末な床無しの住居、慣れない食生活。そして炎天下でのコーヒー豆摘みの重労働。しかも、与えられる賃金は生活するだけで精一杯だった。おまけに、熱帯性のマラリアなどの病魔にむしばまれ、倒れる者は後を絶たなかった。有馬氏の言葉を借りれば「適者生存の法則にのっとり、丈夫な者しか生き残れなかった」という。
 鈴木社長は、私にこんなたとえ話をして下さった。
「関西に〝京ズイカ〟という小ぶりで皮の薄い上品な甘さのスイカがあります。ぜひそのスイカをブラジルで食べたいと思い、タネを持って来て植えたところ、初めの一年はなんとかそれらしいモノができた。しかし、だんだんスイカが大きくなって、二~三年もすると皮の厚い、甘みの少ない、わけの分からない作物になってしまう」
 果物ですら、その国の気候風土に適応して生き残りの変化をおこしている。まして、コーヒー園の過酷な労働条件下では、強者しか生きることは許されなかっただろう。
 そんな話を聞きながら、ソロカバへの風景を眺めていると、初期の移民達の悲しい叫びが地の底から聞こえてくるような気がした。ソロカバのYKKに到着後、再び社長の熱弁に聞き入る。現地説明のため、いきおい言葉にも力がこもる。
「ソロカバ進出計画、とりわけ200万平方メートルの用地買収計画や新規事業計画には、社内でも異論が多かった。先年、苦労の末、ここに機械搬入を終え竣工式を迎えた時、私は生まれて初めて挨拶の席上絶句して、人前で涙をこぼしてしまった」
 と話された。鈴木社長は、すでに六十を越えてみえるはずだが、少年の瞳の輝きを失っていない。これは、夢と情熱を持ち続けて生きている人々に共通した特徴である。私も六十路(むそじ)にあって、かくありたいと思う。

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リオの雨

 世界三大美港の一つに数えられるリオは、1960年にブラジリアに遷都されるまで、二百年間この国の首都として君臨していた。歴史あるたたずまいの街路には、当時植えられた熱帯樹が、うっそうとした葉を生い茂らせている。リオは、そんな風格のある町である。
 リオと言えば、反射的に〝カーニバル〟と出てくるほど、我々になじみ深い言葉である。しかし、その実態はあまり知られていない。
 このお祭りは、毎年2月から3月の四旬節(キリスト教で、復活祭までの四十日間の斎戒期)の前の土曜日から水曜日の明け方にかけて行われる祭りである。この四日間に、世界中から観光客が集中するため、一年以上まえからホテルの予約が必要である。当然通常より料金は高い。
 カーニバルは大きく三種類に分けられる。一番有名なのは、サンボドロモというパレード会場で行われるサンバ学校のトップ18チームによるコンクールである。一チーム約4000人編成で、各一時間半の持ち時間で競い合う。参加者は、年収の大半を衣装や山車につぎ込むことでも有名である。優勝チームの栄誉ははかり知れない。
 次はリオ・ブランコ大通りで行われる一般市民の仮装パレード。そして、ナイト・クラブなどで行う上流階級の仮装パーティーである。この期間、交通機関も都市機能も完全にマヒしてしまうというラテン社会の大変なお祭りである。この四日間は、いわゆる無礼講であり、そのため後で様々な問題が残るという。
 この町に来ると、頭上に二つの象徴を仰ぎ見ることができる。
 一つは、標高710メートルのコルコバードの丘の上にそびえ立つキリスト像である。像の高さは30メートル、左右に広げた腕は28メートルある。遠景として、まるで白い十字架のように見える。ここには、スイス製のアプト式電車で登ることができる。車でも登頂できるが電車のほうが風情がある。
 中学生の時に見た『黒いオルフェ』という仏映画の黒人の主人公が、この電車の運転手をしていたのを覚えている。そんなことを思いながら、車窓の緑に目を転じるうちに終点到着。小雨に濡れながらのコルコバード見学となる。キリスト像の足元付近から眺めるリオの町は霧雨にかすみ、詩的情感に満ちている。視線を下に移すと、イパネマとコパカバーナのビーチが見える。
 学生時代に〝イパネマの娘〟というボサノバの名曲をギターで弾けるようになりたいと思って独習したものの、一向にうまくならず、いつしかやめてしまった。けれども、今でもこの曲は英語で口ずさむことができる。アストラッド・ジルベルトのレコードは擦り切れるほど繰り返し聴いたものだ。きっと「それくらい勉強すれば」と親は思ったことだろう。ボサノバのもつ、夜の浜辺に静かに打ち寄せる波の音のような曲調が私は好きだ。残念ながら今回は、イパネマで泳ぐ時間もない。

 いま一つは、ポン・デ・アスカールという、つり鐘状の岩山である。グワナバラ湾につき出すようにそびえるこの山は高さ396メートル、頂上へは全長1400メートルのロープウェイで、途中200メートルの高さのウルカ丘を経由して行く。山頂からは海の景観と相まって、リオの町を絵画的にとらえることができる。弓なりの白い海岸線と紺碧の海のコントラストなど一見の価値はある。とりわけ、夕暮れ時の景観、夜景は素晴らしい。残念ながら、私達は夕刻からの雨のために今回の登頂は見送りとなった。
 私は個人的に、ぜひもう一度登りたい理由があった。十六年前、この地を訪れた時にちょっと素敵な思い出があったからだ。

 当時二十四歳の私は、友人と二人、インディアナ大学の冬休みを利用して南米探検旅行を企てていた。寮に残っていても、どうせ食費や家賃をとられるからだ。
 パナマから、アマゾン川上流マナウスを経て、リオに着いた。学生の貧乏旅行のためロクなことがなかった。ジャングルの中で雲助タクシーとケンカになったり、ムチャな日程のため過労で倒れたりしていた。そんな時、何気なく、リオの夜景を観るためにポン・デ・アスカールに来たのだ。夜のせいか我々の乗ったロープウェイはすいていた。その時、一緒に乗り合わせたのがアルゼンチンから来ていた女の子達のグループだった。マリアナとバレンティナという姉妹と友人のヘロイザ、そして、ボディガード役のいとこのクロウディオの四人であった。
 どちらが何と言って声を掛けたのか、もう忘れてしまったが、ともかく六人で頂上まで登ることになった。その時、会話の中で「ナショナル・キッドを知っている?」と聞かれ驚かされた。まさか当時、地球の裏側で我々と同じTV番組を見て育った外国人がいるとは想像もしなかったからだ。まるで同じ文化を共有する者同士のような親しみを覚え、急に打ち溶けていった。
 帰り際に姉のマリアナが突然立ち止まり、ブロンドの髪を少し掻き上げながら、耳元に差していた一輪の白い花を私に手渡した。花に目を移すうちに頬にキスされた私は、突然のことに言葉を失っていた。
 一般に私に限らず日本の男は、こういう時の対応が実にヘタクソである。気のきいたセリフを言った覚えもない。第一そういうことは学校では教えてくれない。
 その後何年か文通していたが、いつしか連絡は途絶えたままである。そんな若き日の思い出のせいで、この舌をかみそうな岩山の名は今でもすぐに思い出せる。

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ブラジル雑考

 視察の旅が始まってから順調であった我々の日程も、リオの雨でケチがつき始めた。雨、それも夜半から集中豪雨となった雨にたたられ、夜景見学は中止。夜のサンバ・ショー見学の後は、下水から逆流した雨水が路上に流れ出し、まるで川のよう。スーツ姿のズボンのスソをまくり上げ、両手で靴を持ち、ヒザまで水につかりながらバスに辿りつく。まるでコソドロである。
 これも、十日間も続いているゴミ収集業者のストライキのせいである。雨で流されたゴミが、下水口を塞いだためである。おまけに、ホテルに着いてベッドの上に荷物を広げた途端、停電である。オー・ブラジル! 幸い用心のためトランクにひそませていた小型ライトが役に立った。しかし、あと少しで片づけが終わるところで今度は電池が切れてしまった。「Oh my God!」である、本当に。
 徹夜でこの記事を書いていたところ、TVの画面にF1のアイルトン・セナの死亡ニュースが出た。私は、熱烈なモーター・スポーツファンでもないし、ミーハーでもないが、この南米人らしくないストイックでナイーブな面持ちの青年に好感を持っていた。レース後のインタビューの彼の顔は笑っているが、目は笑っていない。生と死の境界線を綱渡りしている男の目である。レース場の喧噪をよそに、自分の壊れたマシンに両手をついて、悔しそうに遠くを見ている。どうも今年はこんな図柄が多かったようだ。人は色々と好き勝手なことを言うが、こういう世界に生きている人間は、もとより事故は覚悟の上のことであろう。今頃は天国で、好きなラジコン・ヘリで遊んでいるかも知れない。ともかく、ブラジルはまた一人イイ男を失った。心より冥福を祈りたい。
 有名人と言えば、Jリーグ旋風のおかげで、世界的に有名なサッカー選手をこの目で見られるようになったことは素晴らしいことだ。リオの町を歩いていると、何人もから「ジーコ、アルシンド、カシマ・アントラーズ!」と声を掛けられ苦笑してしまった。ここサッカーの本場ブラジルでも、母国の英雄達の海外での活躍は気になるらしい。かつては、ペレを擁して無敵のサッカー王国を誇っていたブラジルも、最近はマラドーナのアルゼンチンに押され気味である。調べてみたら、驚いたことに1970年以来ワールドカップで優勝していないのである(注・連載終了直後の1994年7月17日、ブラジルは決勝戦においてイタリアを制しついに優勝を決めた)。どうも国内のクラブ・チームの勢力争いが、代表チーム結成時に影を落としているためらしい。どこの国にも派閥争いはあるのである。そのため最近、国外のチームに所属する選手が多くなった。

 わずか一泊のリオ滞在で大変名残惜しいが、早朝の薄明かりの中で荷造りを完了する。どうやら雨は上がったようだ。窓からポン・デ・アスーカルが薄いシルエットになって見える。
 モザイク模様の遊歩道に縁取りされたリオの海岸線は、ミルク色の薄もやに溶けている。砂浜の向こうには、場違いに大きな波が打ち寄せ、白濁した海水が渚を駆け巡っている。海の色と波の砕ける様を見ていて、なぜかボッティチェリの〝ヴィーナスの誕生〟の情景が頭に浮かんできた。早朝のリオの海辺は、美の女神の生誕を予期するかのように輝いて見えた。
 空港に向かうバスの中で、再びガイドの佐藤さんの話を聞く。彼女は、6歳の時に鹿児島から一家で移住して来たそうだ。赤道を越え、パナマ運河を通り、リオの沖合いに着いたのは41日目のことだった。
「まだ太陽の昇り切ってない朝、父親から『おい、ブラジルに着いたぞ!』と言われて起こされた。眠い目をこすりながら上甲板から初めて眺めたリオの風景は、生涯私の脳裏から消えないでしょう」
 また彼女は次のように語った。
「その頃の私達には、年に三度楽しいことがありました。3月の〝日系人相撲大会〟、5月のメーデーに行う〝運動会〟、7月の冬休み(南半球のため)に行う〝演芸会〟です。その時には、地域の日系移民が一同に会して、日頃の苦労話をしたりなつかしい日本料理を食べたりします。子供達にとっても、大人にとっても、待ち遠しい行事でした」
 日本にいた頃、彼女の父親は高校の教師で、母親は京大卒のお医者さんだったというが、移民を決意した理由を聞きそびれてしまった。佐藤さんは大学で化学を専攻し、同じく学者のご主人と結婚した。今は二人の子持ちだそうだ。専業主婦をしていたが、子供達を上級学校に進ませるためにガイドの仕事を始めたという。ここでも日本人の教育熱心な伝統は生きている。
 数年前、ブラジル南部に住む両親をリオに招待したところ、海の見える丘の上でお父さんがしみじみと「あの頃は、大きな夢を持って来たんだがなあ」と言ったという。その時、佐藤さんの目に涙が光っていたのを何人が気づいたろうか。そのお父さんも、今はもういない。

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キューバ危機とJFK

 1962年秋、私は小学校4年生だった。ある朝、父が新聞を読みながら「戦争になるかもしれんな、第三次世界大戦だ」と言ったことを覚えている。今考えてみると、あれが〝キューバ危機〟だった。
 アメリカに反逆してバチスタ政権を倒し、革命を成し遂げたキューバが、大国アメリカの圧力に抗して生存するために、世界の軍事バランスのもう一つの雄であったソ連邦に頼るのは必然と言ってよかった。またそれはソ連にとっても、対アメリカ戦略の絶好の獲物となった。対岸からわずか200キロの距離にあるキューバは、まさにアメリカのノド元に突き付けられた短刀でもあった。その短刀がフルシチョフとカストロの密約の中でギロチンに変わろうとしていた。キューバに対するソ連の長距離ミサイル配備である。
 ご承知の方もあると思うが、アメリカの世界戦略において、大陸間弾道弾(ICBM)による国防はその基本となるものであった。仮にソ連からミサイルの先制攻撃があっても、アメリカ本国到達まで40分近くかかる。その間に十分迎撃・反撃態勢がとれる。そのことがソ連の核攻撃に対する抑止力となるという考え方である。それまでは米ソ両国の間に均衡がとれていた。いわゆるパワーオブバランス(力の均衡)、核の均衡である。これを根本的に覆そうとしたのが、キューバへのソ連の長距離ミサイル配備計画である。
 キューバからならアメリカ本土は7~8分で全域がカバーされてしまい、反撃の機会は失われる。U2型偵察機によりすでにキューバに施設が完成しかけていることが立証され、あとはミサイルを搬入するだけであることが分かる。アメリカがそれを黙って見ているわけはない。ところが時のソ連首相フルシチョフは、就任早々の若き大統領を完全に見くびっていた。「金持ちの坊っちゃんなど、ワシが一喝すればひざまずく」とでも思っていたのかもしれない。アメリカは即座に国家総動員体制をとり、緊急配備に入った。対岸のマイアミ方面に陸軍の大部隊が集結する。米国大西洋艦隊はキューバ沖へ向かう。
 私のホストファミリーの奥さんは当時の様子を思い出して、「戦車が国道を通って南へ向かう様子をTVで見ていて、本当に戦争が始まると思った」と言っていた。
 思ったより素早いケネディの対応に対し、フルシチョフは舌を巻く。「第三次世界大戦も辞さず」というケネディの断固たる決意と水際作戦を目の当たりにしたフルシチョフが、逆にヒザを屈したのである。ソ連貨物船は、大西洋上でUターンして行った。
 この事件が切っ掛けとなり米ソ間にホットラインが引かれ、緊急時にトップが直接電話で話し合いできるという安全弁ができた。さらにその後、米ソ間の部分的核実験停止条約締結にも成功している。しかし、このことがソ連共産党内におけるフルシチョフの威信の低下を招き、ほどなく権力の頂点から年金生活者への転向を迫られることとなる。人生とは、得てしてこういうものである。
 頭越しに、大国同士で決着をつけたこの時のソ連の対応を、カストロは「裏切り行為」と非難したが、もしこの時ソ連が強行突破したとすれば、当時の国際情勢を考慮した時、間違いなく米ソ間の戦いが起こり世界は第三次世界大戦に突入していたと思われる。後の論評は誰にでもできるが、私はやはりケネディの英断であったと思う。
 彼の実弟、ロバート・ケネディ司法長官の著作『13日間』を読むと、その時のケネディ兄弟の苦悩のあり様が赤裸々に描かれている。私はこの本をアメリカ留学中に読んだ。国家存立のための政治的決断と指導者の勇気の持ち方を教えられるようだ。この本の中で一つ面白かったのは、ロバート・ケネディが「キューバ危機に直面した時、何故東城が真珠湾攻撃を思い立ったか分かった」と書いている点である。山本五十六と東条英機を取り違えているが、当時米国もキューバ奇襲攻撃を考えていたことがはっきりと分かる。キューバ危機回避で国際的に名を成したケネディ大統領も、翌1963年11月、テキサス州ダラスで車上凶弾に倒れるのである。栄枯盛衰の理(ことわり)はここにも生きている。

 いかにもアメリカらしい話なので、これも紹介したい。ジョンに続き、弟のロバート・ケネディも1968年6月、大統領選遊説先のロサンゼルスにて暗殺された。後に息子達のことを回顧して母親のローズは「私達アイルランド系移民の子孫がアメリカにおいて二等国民から一等国民へと認知されるために、私の三人の息子が神に召されたとするならば、それは決して大きな犠牲であったとは言えない」と語っている(長男は、ヨーロッパ戦線でパイロットとして戦死)。まるで日露戦争時の乃木大将の妻である(乃木家も息子三人が戦死している)。
 ワシントンやリンカーンの伝記は、多くの方が読まれたと思うが、戦後のアメリカ大統領で子供向けの伝記が日本で出回ったのはケネディだけだと思う。43歳の若い大統領であり、太平洋戦争の英雄でもある。マリアナ沖で魚雷艇PT109の艇長としての活躍。日本の駆逐艦・天露との衝突。そしてサメの群棲する海の中、身を挺して多くの部下を救ったこと(この時の功績で彼は名誉戦傷章を受けた)。29歳で下院議員として政界にデビュー。上院議員となり美貌のジャーナリスト、ジャクリーンとの結婚。後に映画ができるほど、逸話には事欠かない。巧みな話術と華麗なパフォーマンスで政界のスターとなる。
 しかし、ケネディの政治家としての真価は、それまで言うだけで誰も手を付けようとしなかった数々の社会的タブーに果敢に挑戦し、大統領として改革の努力をしたことにある。そのために多くの敵をつくり、自らの命を縮める結果を招いたと言えるかもしれない。
 人生の劇的な幕切れによって、彼はアメリカ民主主義の永遠の象徴となった。死後様々なスキャンダルが暴かれるが、ケネディの名は今も多くのアメリカ人にとって希望の星である。

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今日のキューバとゲバラに想う

 ハバナ市の中に、オールド・ハバナ(旧ハバナ)と呼ばれる地域がある。
 その名のとおり、古いハバナの街並みを残したところである。その一角に、外国人専用のオミヤゲ物市がある。外国人専用のため、当然値はいい。それでも日本で買うよりはるかに安い。タバコ、葉巻、ラム酒、手工芸品と様々並ぶ中に、手描きのチェ・ゲバラの顔のついたTシャツを見つけた。私はなぜか、なつかしい友人と出会ったような気がした。

 我々団塊の世代末期の者にとって、七〇年安保の時代は忘れ難いものである。そしてその時代を想起させるのが、私にとってチェ・ゲバラのポスターであった。個人の思想的傾向はともかく、我々の世代は〝革命〟とか〝挑戦〟、〝社会主義〟といった言葉にロマンを感じ心動かされる感性を強く持つ世代である。私は決して左翼ではなかったが、当時の友人は新左翼や右翼、宗教活動を熱心にやっているような者ばかりで、一風変わった連中ばかりであった。もちろん、彼らに言わせれば「お前が一番変わっているくせに、よく言うよ」ということになるだろう。
 ある時、チェ・ゲバラのポスターの貼ってある友人の部屋で、政治談義が始まった。私はかねがね新左翼の運動形態に批判的であった。当然、意見は対立する。妥協点など全くない。最後に「共産主義は、信仰や宗教と同じメンタリティーだ。教条主義者とは話ができない」と言った途端、「コノヤロー」と言って、友人の友人に鉄パイプのようなモノでなぐられそうになった。あやうく身をかわしたものの、以来この手の人種とは議論をしないことにしている。
 〝絶対〟を信じている者にとって、それを批判されることは、いかに論理的な議論であれ、単なる冒とくとしか受け取れないのだろう。同じ頃、某有名女優のケチをつけたら、同様の反応を示した男がいたが、これも同質の精神構造だと思う。
 坂口安吾の「堕落論」だったろうか。英雄も聖女も時の経過と共に堕落し、世に絶対などというものは存在しない。あるとすれば、神という人間の造り上げた観念の存在だけであろう。
 私は〝絶対〟などというものは、それこそ〝絶対ない〟と信じている。とりわけ、政治的なものはおしなべて疑って間違いないと思う。政治はその起源が「祭りごと」であり、そもそもイカガワシイものである。そのイカガワシイものを、歴史上、多くの人々の試行錯誤と監視のもとに少しでもまともなものにしようとしてきたものが、今日の民主主義の形態であると思う。当然それも不完全なシロモノである。
 これは少しでも監視の目を怠ると、すぐまた堕落の道を歩み始める。民主主義とは、今もある種のリスクを伴うシステムである。しかし、独裁主義の効率性には劣るものの、はるかに安全な制度だ。人類の英知は、高い代償の上に効率性よりも、安全性を選択したのである。
 ボリビアの奥地に果てたキューバ革命の英雄ゲバラの顔は、私に青春時代の光と影を想い起こさせるのであった。

 その夜我々は、高瀬駐キューバ大使より夕食会に招待を受けていた。在外日本大使館は、皆一様に立派な造りであるが、キューバでは、かつての植民地時代の地主の邸宅を改装して使用している。ここの壁にも被支配者の恨みがこもっているのだろうか?
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ヘミングウェイの島

 ソ連・東欧圏の没落後、キューバは自主独立路線をとってきたが、最近は背に腹はかえられず、経済開放政策にむかいつつある。
 苦しい経済状況の中で、国民の不満が顕在化してこないのは、すでに不満分子の多くが海外に亡命してしまっていることと、低位安定であるが、ソ連や中国のケースのように、この国には社会主義特権階級の発達がなかったからかもしれない。そのせいか、カストロ首相の実の娘や孫までアメリカに亡命してしまった。
 同行の黒川議員が「子供達にやろうと思って、野球のボールを持って来たけどガイドに尋ねたら『そういうモノは個人所有できないことになっているから、学校に寄付してくれ』と言われて驚いた」と言っていた。社会主義とは窮屈なものだ。しかし、他の中南米諸国と比べた時、教育・医療サービスが無料であり、識字率98%、乳児死亡率も低く、平均余命76歳を達成しているこの国にケチをつける気にはなれない。逆に、共産主義者ではない私でも、中南米の貧富の差、富の偏在の有り様を目にした時、これらの国でクーデターが頻発し、革命運動やゲリラ活動が存在するのは当たり前の話だと思う。

 かつて1492年に、この島の北東部に上陸したコロンブスは「地球上で最も美しい島」と書き残した。今一人、この島の魅力に取りつかれ、二十二年間も住み着いた著名人がいる。
 アメリカの文豪アーネスト・ヘミングウェイである。
 シカゴ生まれの彼は、高校卒業後新聞記者となり、第一次大戦の折イタリア戦線に派遣され、帰国後何かに憑かれたように創作活動に没頭した。オールド・ハバナの一角に、アンボス・ムンドス(二つの世界)という名の古びた五階建てのホテルがある。ここの南角四階の部屋が、ヘミングウェイが初期に逗留していた所だそうだ。ここで、いくつかの傑作が生まれたのかもしれない。また近くにフロリディータという名のレントラン・バーがある。この店のカウンターの奥まった一角は、ヘミングウェイの常席であったという。今もこの席は彼のために予約してあるかのように、鎖で仕切ってある。その空間を凝視していると、今もこの席でヘミングウェイの魂が、モヒートスやダイキリなどのカクテルをあおっているような錯覚にとらわれてくる。
 私も同様の癖があるが、常に端の席にすわりたがるというのは、精神分析的にどんな意味があるのだろう。我々はこの店で、ヘミングウェイ・スペシャルというエビ料理を食べた。
 社会主義国でもキューバはなかなか商売上手である。
 木々の緑の間を抜け落ちてくる陽光を受けながら、近くの公園を散策する。
 公園の角々に古本を並べて売っている人々がいるが、商売なのかヒマつぶしなのか分からない様子だ。
 もし仮にアメリカと握手ができて、彼の国から大量の観光客が来るようになれば、このノドカさは失われ、治安も他の南米諸国並みに悪化することだろう。やはりこの国は、この国に合った行き方を模索する方がふさわしいのかもしれない。しかしカストロが死んだ後が問題となるだろう。
 ヘミングウェイは、キューバ生活の後半は別荘に移り住んだという。ガイドの案内で郊外の海沿いの邸宅を訪れた。現在はキューバ政府に寄贈され博物館となっているが、外見は公園のようである。旧持ち主の好みを現すように、敷地内には南洋系の木々草花が縦横に成育し、まるでジャングルのような有り様である。愛犬の墓と共に、氏の愛艇フィラール号の船体が展示してある。フィラールとは彼の作品に出てくる女性の名だそうだが、調べてみたがどの作品だか分からない。現在、修理中のため本館内は立ち入り禁止。

 再びバスに乗り、コヒマルという漁師町に向かう。この地では、ヘミングウェイの作品「老人と海」のサンチャゴ老人のモデルとなったグレゴリオ氏に会えるという。グレゴリオ氏はもう八十をかなり超えた年齢だそうだ。毎日11時に、ラ・テレーザという海辺のレストランに昼食をとりに来るという。店内はまるで「老人と海」の世界。壁面には映画の場面が大写しで描かれ、またヘミングウェイの写真や胸像まで置いてある。アメリカ嫌いの国がずいぶんアメリカ人作家に肩入れしたものである。店内の奥まった窓辺の席や生前のヘミングウェイと親交のあった数少ない一人である。
 彼の許しを得て向かいの席にすわった。頬と手にきざみこまれたシワは、その褐色の膚の色と共に、無言のうちに〝海の男〟であることを語りかけている。もう年金生活に入っているであろうこの老人も、日々このレストランの営業と政府の観光政策に協力させられているのだろうか。
 私はヘミングウェイの作品の中で、とりわけこの「老人と海」には思い入れが深い。内容は皆様ご承知の通り、カジキ獲りの年老いた漁師サンチャゴが一人で海に出て、運良く大カジキと出くわし、死闘の末これを捕獲する。ところが血の匂いに引き寄せられたサメに食い荒らされ、徒労のうちに港に辿り着く、というストーリーである。
 淡々とした情景描写の中に、情勢の変化に戸惑い悩む老人の心情をまじえながら、運命に立ち向かう男の姿を雄々しく描いていている。
 私は中学一年生の時にこの作品で、読書感想文コンクールの表彰を受けた。ところが本を読まずにNHKの傑作短編映画を見て書いた結果であったため、受賞後あわてて実本を読んだという思い出深い作品である。
 作者は、男が男らしく生きることができた時代の最後の作家かもしれない。

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メキシコとNAFTA

 エメラルド色に輝くメキシコ湾の海を眼下に、私達は再び機上の人となる。
 現在キューバへ直行便が相互乗り入れしているのは、ペルーとメキシコからである。視察の旅も十日目を迎えて、さすがの私も、機上眠るようになっていた。機内放送で目覚め、気がつくと窓外には褐色の大地が広がっていた。ほどなく白っぽい建物が立ち並ぶ地域の上空を通過。メキシコ・シティーの上に来たことを知る。
 私は、かつて三年近くアメリカにいたが、どういう訳かメキシコに縁がなく、今回が初めての訪問となる。〝太陽と情熱の国〟といえば、この国の代名詞のように言われている。しかし、この国の持つ長く複雑な歴史は、人々から観光用の軽い笑いさえ消し去ってしまったかのようにみえた。

 1836年にスペインから独立後のこの国の歴史は一口に言って、アメリカとの抗争の歴史であった。
 大国アメリカとの様々な利害衝突、圧力、そうしたものに抗し、ことごとく敗れ去ってきたのがこの国の歴史である。とりわけ太平洋戦争でアメリカに叩きのめされた日本人には、その心情がよく分かる。アメリカという戦略国家は、自らの国益を押し通すためにも常に国際正義と公正の衣をまとってやって来るのだ。〝アラモの戦い〟を考えていただきたい。そもそもテキサス州はメキシコの領土であった。勝手に入植したアメリカ人達が土地の所有権を叫び、独立運動を起こした訳である。国家の論理からすれば、無法者を武力で鎮圧するのは正当な行為である。しかるに、自由の国アメリカは「独立を望む我が国民に危害が加えられた」ことを理由に当時メキシコ領のテキサスに軍隊を派遣、独立させ自国の一州として編入している。さらに、そのことに異議を唱えるメキシコに戦争をふっかけ、カリフォルニア州も奪っている。まるで押し込み強盗である。結局アメリカは、メキシコ領土の北半分を奪っている。
 私はアメリカ人と太平洋戦争の話になるといつもこの話を持ち出す。そして「アジアに対して、日本は謝るしかないが、アメリカやヨーロッパに頭を下げる理由はない」「アメリカと日本の戦いは、中国大陸市場の覇権を巡っての戦いであった」と言うことにしている。大体、西欧諸国が歴史上アフリカ、中東、アジア、南米で行ってきたことを考えたら、彼らにりっぱなことを言える資格などないはずだ。
 先般、法務大臣がツマらない発言で辞任したが、アジアに対しては、日本は何も言えない。〝大東亜共栄圏〟というのは、日本の独り夢にすぎず、アジアにとっては傍迷惑な話でしかなかったのだから。日本のアジア進攻によって、各国の独立の時期が早まったことは、私の友人のインド人ジャーナリストも認めていたが、それは結果論にすぎない。領土的野心が表に出た瞬間から〝大東亜共栄圏〟の理念は残念ながら侵略の言い訳にすぎなくなってしまった。
 ともかく、メキシコ人は一般的にアメリカという国に好意を持っていない。
 私の友人で、岡崎に三年ほど住んでいたフィリップ・キース氏が、友人とメキシコへ車で旅したところ、車体に貼ってあった米国旗のステッカーを警官に見とがめられ、はがされたという。私自身もかつてテキサス州サンアントニオへバス旅行した時、アラモ砦の場所を尋ねたホテルのメキシコ系従業員から、そっ気ない応対を受けたことがある。彼曰く「アラモ砦? そんなモノはもうないよ。俺達メキシコ人がとっくの昔に奪い返してやったよ」と腕をまくってみせた。
 現在、サンアントニオの人口の六割はメキシコ系のアメリカ人が占めており、彼の話はあながちウソではない。ただし、アラモ砦はまだ市の中央に残っている。

 本年1994年1月1日、メキシコとアメリカ、カナダの間で北米自由貿易協定(NAFTA)が発効した。私は前述のような両国の歴史を考えて、よく条約が成立したものだと思った。
 とりわけ、中南米地区には一般的に〝米国従属意識〟が強い。要するに「アメリカ資本主義の体制に組み込まれて経済余剰を搾取されているため、自立的な発展ができないでいる」という被害者意識である。これは、フランスの学者フランクやブラジルのドス・サントスらによって従属論という学説にもなっている考え方だ。
 好き嫌いはともかく、米国はメキシコの貿易の約七割を占める一番の貿易相手国である。今後NAFTAによって、広大な米国市場で自由に商業活動ができるメリットは大きいはずだ。しかし、この制度は基本的に資本力の大きい企業に有利に働くわけだから、結局またアメリカの勝ちに終わりそうだ。しかし、今のところこの制度を利して、米国の会社を買収したりとメキシコの攻勢が目立っている。この点をジェトロ・メキシコ(日本貿易振興会)の沖野所長は「一時的現象です。貿易絶対量、企業の底力は米国の方がはるかに上ですから」と明確に答えられた。
 日本としては、本協定が第三国を締め出すための閉鎖的な経済ブロックとならず、開かれたものとなるよう接触を続ける必要があるだろう。当然、米国は守りの動きをするだろうが。いずれにしても、この結果、中南米の優等生メキシコの真価が問われることになるだろう。

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